愛剣を振り上げ、振り下ろす。


 たったそれだけの動作で、目の前の猪に似たモンスターは、息絶え、ただの肉塊へと姿を変えた。
 

 飛び散った血が俺の服と黒髪に降り注ぐ。
 

 剣をうまく扱えるようになると返り血を浴びずに相手を倒せるらしいが、俺にそんな高度な技術は無い。
 

 血生臭い匂いが充満する。もう慣れたことなので気にしないが、町についたら風呂に入りたい。ベトベトするのは苦手だし、モンスターの血はもっと強力なモンスターを呼ぶと聞いたことがある。
 

 それより、コイツは食べられるだろうか。
 

 もう三日もまともな食事をしていないので、目の前の肉塊がただの食い物にしか見えない。
 

 猪に似ているので当然味も猪なのだろうか、昔猪のステーキを食べた事があったがあれは美味しかった。猪汁も美味しそうだし、猪のリゾットも食べてみたい。考え出したら止まらず涎が垂れてきた。
 

 首を大きく振り、思考を止める。もう不用意にモンスターは食べない、『必見! 食べられるモンスター大百科!』を買ってからにしよう。でも高いんだよな、銀貨二枚だったか。
 

 理性が持たず、生のまま食らいついてしまわないうちに、早足でそこから立ち去る。
 

 それほど暑くはないのだが、太陽の日差しに奪われる水分の一滴も惜しく、なるべく日陰を歩く。
 

 『グゥウ』と何処からかおかしな音が鳴る、何処から鳴るかなんてわかっているのだが、考えると余計に腹が減るので無心に歩き続ける。
 

 『グウゥゥ』『グー』『グゥウゥゥ』
 

 いくら無心になろうと生理現象には対抗できないらしい。
 

 やっぱりさっきの肉食べておけばよかった。でも、少し前に食った仁王立ちする牛のようなモンスターには毒があったのだ。
 

 おかげで近くにあった教会で三日も熱にうなされながら寝込むことになった。
 

 そのせいで、前の町で皿洗いのバイトをして稼いだ旅費が教会への寄付でパーだ。
 

 大体、教会も教会だ、何が寄付だ。こっちが毒で苦しんでいるのを知っていて、わざと薬を高値で売りつけやがった。
 

 更に、その薬があまり効かないのだ。
 

 あれだけの値段のした薬なので、一日で完全復活を遂げると思っていたのに三日も教会で世話されることになった。
 

 当然、食費と宿代もとられた。
 

 寄付という態のいい形をとっているが、やっていることは悪徳商人とかわらないじゃないか。
 

 更に、人が熱で苦しんでいるというのに、毎日三回は必ずお祈りを強制された。
 

 巡り合わせへの感謝だとか、旅の安全のお祈りだとか、信仰を深めるありがたいお言葉だとか、そんなよくわからず役に立たないだろう事を毎日やらされた。
 

 しかも、だ。
 

 苦しんでいる人のために教会があると思っていたのだが、それは間違いらしい。だって、誰も看病に来てくれなかったのだ。普通シスターがつきっきりで看病してくれるものだろう。高い金払っているのだから、そのくらいのサービスはしてほしい。
 

 唯一、役に立ちそうな事は『人は罪深い生き物です。ですが、その罪を罰するのは人では無く神なのです。なのでこの人達を見たら是非教会へ連行していただきたい』などという話を聞かされながら凶悪犯罪者の写真を見せられた事だ。
 

 あれで大勢の賞金首の顔を覚えられた。俺の腕で倒せるわけないが、賞金首を見た場所を賞金稼ぎに教えるだけで多少は分け前を貰えることがあるのだ。
 

 風邪が治った時には一文無し。教会を出るときに貰ったものといえば水くらいだ。
 

 あと、シスターの笑顔。
 

 そんなに出て行って欲しかったのか。
 

 そうか、そうですか、せいぜいそのカッコイイ神父さんとお幸せに。
 

 いっその事、『俺も神父になってその教会に居座ってやろうか』と思いながらも、そそくさと教会から出て行ってやった。
 

 今思うと、もう少しの間あの教会の世話になって、あの二人に迷惑かけてやればよかった。
 

 どうせ目的のある旅じゃない。いい暮らしが出来るなら、本当にあの教会の神父になってもよかった。
 

 一応、剣士をやってはいるが、素人に毛がはえたようなもので、一人でモンスターハンターをやっていくのは無理がある。
 

 パーティーを組むという方法もあるが、そうするとその人数分報酬も減るわけで、全員に十分に分け前が行く仕事を選ばなくてならないわけで、報酬の高い仕事には危険が付き物なわけで、その危険に対応するほどの能力がない俺とパーティーを組んでくれる人はいないわけである。
 

 小さな仕事をコツコツやっていくと言う手もあるが――――というか、初めはみんなそうしているのだろうが――――俺はそんなチマチマした事はしたくない。
 

 結局、俺はモンスターハンターには向いてない。
 

 でも、他にやりたいことも無い。だからやりたいことが見つかるまで、俺はこうして世界を旅して回っている。
 

 今まで心惹かれる仕事はいくらでもあった。
 

 騎士、パン屋、船乗り、コック、どれも魅力的だ。ああ、それから神父も。
 

 でも、どうしても、何かが足りない。魅力的だと思っても、それになろうかなと思っても、何かが足りないのだ。
 

 ぶらぶらと旅を続けている間、俺はその何かについて考えようとした。
 

 でも、旅をしている間はその何かが満たされていた。
 

 だから、きっと、俺は歩くのが好きなんだ。そうに違いない。なら、歩く仕事をしよう。
 

 例えば、そう、狩人なんてどうだろう。モンスターより数段弱いただの動物が相手だし、もしかしたら俺の秘めたる力は弓にあるのかもしれない。俺の華麗な弓さばきで次々に動物を射止め、毎日肉を食うのだ。
 

 近くの町にも売りに行って、売った金でパンやスープを買う。肉にパンにスープ。なんて豪華な食卓なのだろう。
 

 顔がにやけ、また涎が出てきた。
 

 ここで気づいた。空腹を忘れるために回想と空想に浸ったと言うのにいつの間にか食べ物の事ばかり考えている。
 

 涎を拭い、頬を両手で叩く。
 

 思ったより強く叩いてしまい、赤くなった。
 

「それにしても、もう三日も歩きっぱなしなのに町が見えてこないな。もしかして迷ったんじゃ・・・・・・。いやいや、俺はちゃんと地図どおり進んできた。地図に載ってる森もさっき抜けたばっかりじゃないか。もう少し歩けばスワイとかいう町が見えてくるはずだ」
 

 そう自分に言い聞かせながら早足で歩く。
 

 早く町に着いてまともな食事にありつかないと、自分の腕にかじりついてしまいそうだ。
 

 あ、でも、金が無いんだった。どうしよう。
 

 まぁ、そんなもの食ってから考えればいいか。
 

 怒られるのは嫌だけど『食った分働け!』と言われたら、それはそれでバイト先が決まるわけだし、いい事だらけだ。でも、牢屋にぶち込まれるのだけは勘弁して欲しい。
 

 いや、だけど、それはそれでしばらく食事にありつけるし―――と、町が見えるまで約一時間、空腹を紛らわせるためにこんな事をずっと考えていた。

 

 町が見えると、俺は走った。今まで考えていた事を全て忘れ、足だけで何処かに行ってしまうんじゃないかと思うほどの勢いで走った。
 

 やっとだ、やっとまともな食事にありつける。
 

 牢屋にぶち込まれようと打ち首にされようと関係ない。腹いっぱい食って、そのあと金が無いですごめんなさいと謝ろう。誠意を見せれば許してくれるさ。ただ食い前提で飯屋に入る俺に誠意があるのかと聞かれれば、そりゃ無いだろうが、生きるためだもの、仕方ないさ。許してくれるさ。
 

 三十分ほど全速力で走って、やっと町に着いた。
 

 足を止めることなく宿屋か飯屋を探し回る。ほどなくして一軒の宿屋を見つけた。
 

 すぐには止まりそうに無い勢いに開けっ放しの扉は好都合だ。店の中に体当たりするように飛び込む。
 

「飯ください! 飯!! なんでもいいからすぐに出来るものたくさんね!」
 

 誰かに怒られるんじゃないか、笑われるんじゃないかと思うほど大声で叫んだ。だが、誰も怒らず誰も笑わなかった。それもそのはず、誰もいなかったのだから。
 

 客が居ないだけなら、何も気にするほどのことじゃないが、亭主までいなかった。
 

 廃業でもしたのだろうと思い、すぐに別の店を探す。だが、何処も同じような有様だった。客も亭主もおらず、食器などもない。空腹を堪え切れず、悪いと思いながらも冷蔵庫を漁ってみたが、食糧もない。
 

 だんだん腹が立ってきた。この町は俺に嫌がらせをしているのだろうか。誰でもいいからひっ捕まえて事情を聞こう−−−と、六軒目の飯屋から出たところで気づいた。そういえば、この町に着いて誰とも会ってない。
 

 大きな町ではないが小さな町でもないスワイ、人っ子一人見えなくて、声も聞こえない。
 

 露天は開かれたままなのだが、商品は何もなかった。
 

 町をよく見渡すと、扉が開けっ放しの家が多い、今まで回ってきた店も扉が開けっ放しだった。地面には装飾品や日常品、踏みつけられ潰れた果物が落ちている。
 

 そこでやっと俺は危機感を持った。
 

 まずい。ここにいるのはまずい。きっと何かある。絶対何かある。何かあった後かもしれないが、これから起こるかもしれない。早くここから離れよう。
 

 ―――いや、待て、待つんだ。今ここから離れちゃ駄目だ。食い物を見つけてからだ、少なくとも次の町まで徒歩で五日もかかる。ここから逃げたところで餓死しちゃなんの意味も無いだろう。
 

 ―――でも、早く逃げないと、何が起こるかわからない。町の状況からして何かがあるのは確かなのだ。これほど慌てて逃げなければならない何かが。食い物なんて気の幹でもかじっていればいい、モンスターだってその辺にたくさん居るじゃないか。
 

 ―――じゃあ、またあの苦しい思いをしてもいいのか?今度は熱だけじゃ済まないかも知れない。足が取れたり、腕が腐ったり、もしかしたら死んでしまうかもしれない。それでもいいのか?
 

 ―――だけど、一刻も早くここを立ち去らないと、それこそ命の保障は無い。さっさと逃げてしまおう、今ならまだ間に合う。
 

 頭の中で生き残る方法を必死で考える。
 

 ここで、その何かのせいで死ぬのもいやだけど、腹ペコで死んだり、足がとれたり、腕が腐ったりするのはもっとヤダ。どうせ死ぬなら一思いに死にたい。
 

 というわけで、まず食糧を見つけ出してから逃げることにした。
 

 静かに、なるべく急いで、俺は走った。
 

 

 


 

 

 

 本当に、本当に何もない。
 

 既に民家も含め、五十軒は探索しているというのに、パンの一切れも残っていない。
 

 食べかけの食事は全部ひっくり返され、床に散らばり踏みつけられており、とても食べられるものじゃない。
 

 少しくらい何か置いていってくれてもいいじゃないか、この町の住民は皆随分とケチなようだ。
 

 食べ物だけでなく日常品も持てるものはほぼ無くなっていた。もうこの町に戻っては来られないということだろう。でも、今のところ町にそれほどの異常は無い。
 

 人が居ないとか食い物が全く無いとか言う異常ならあるが、人が住めなくなるような異常がない。
 

 建物の損壊が無いのでモンスターの群れが襲ってきたわけでも無いようだ、台風や津波のあとも皆無である。
 

 すでに何かが起こっているというのなら、病気の蔓延くらいか。俺はすでにそれにかかっているかもしれない。でも、身体に何の異常も感じない。
 

 本当に怖い病気はじっくり身体を蝕んでいくものだと言うのを思いだし青ざめるが、もし病気が原因で皆逃げ出したのなら、すでに感染した人や死体が残っているはずであるが、死体も無ければ真新しい墓も無かった。つまり、これから何かが起こるのだ。
 

 何が起こるのだろう。
 

 一番高い可能性はモンスターの群れだ。
 

 モンスターの群れにはもう何度も遭遇している、会うたびに死を覚悟した。
 

 三日間走り続けた末、川に飛び込み滝つぼにまっさかさまに落ちて全身骨折しながらもどうにか生き延びたこともあるし、群れに追われながら町に逃げ込んで、その町の騎士団や住民に殺されそうになった事もある。
 

 同じ種族ばかり集まっている群れなら、まだ対処方法はあるが、色々な種族が入り混じった群れは本当に厄介だ。
 

 隠れても、一匹鼻の利くモンスターがいたら場所がばれてしまう。走って逃げても、一匹翼のあるモンスターがいれば追いつかれ足止めを食う。
 

 違う種族でも群れは群れ、大抵が見事な連携で着実に獲物を追い詰める。
 

 思い出すだけで身震いする。
 

 剣の腕が無くても一人旅で生き延びていけたのは、この中途半端な運のおかげだ。
 

 本当に運が良かったらこんな旅をしていない。運が無いから一人でこんな旅をしつつ、態のいい職を探しているのだ。
 

 ふと気づくと空はもう茜色に染まっていた、町の中央の広場で冷たくなってきた 風を感じながら途方に暮れる。
 

 結局、今のところ何も見つからず、何も起こらなかった。このまま何も食い物が見つからなかったらどうしよう。本当に餓死しかねない。
 

 グゥ〜と何時間ぶりかに腹の虫がなる。
 

 食い物探しと人間探しに夢中で気にならなかったが、そういえば腹が減っていたんだった。何のために食い物を探していたんだか。
 

 ふと、目に入ったのは地面に落ちている、潰れたリンゴ。
 

 このリンゴ、確かに潰れて砂まみれだが、食えそうだ。
 

 ジャリジャリ気持ち悪そうだが、食えないことも無い。
 

 毒が塗りこまれているわけでもない、食って死ぬわけでもない。
 

 むしろ食わずに死ぬより食って死にたい。
 

 砂なんていつも空気と一緒に吸い込んでいるじゃないか、どうってことないさ。
 

 この際妥協しよう、少し汚れている食い物ならいくらでもある。パンもチーズもハムだって、床に落ち踏みつけられたのならたくさんあった。これからはそういう『食えなくない物』も集めよう。だって、勿体無いじゃないか、ちょっと汚れているだけだ、世の中には餓死する人もたくさんいるのだ、俺は今その候補だ。
 

 空腹と誰も居ないという安心感から、プライドを捨て、虚ろな目で潰れたリンゴに手を伸ばす。
 

 触れる。リンゴとは思えないほどのざらつき。
 

 きっと、噛んだらリンゴの味より砂の感触のほうが気になって美味しいとは思えないだろう。
でも、このままじゃ栄養不足でぶっ倒れる。味よりとにかく栄養補給だ。
 

 そっと口にその潰れたリンゴを近づけ、口を大きく開け―――ゴトン
 

 そのとき、前方にある宿屋で音がした。驚いて五センチくらい飛び跳ねた。
 

 誰もいないと思っていたのだが、誰か居るのだろうか? それとも動物か? もしかしたらモンスターかもしれない。
 

 行って見ようか、もし人なら食べ物をわけてもらえるかもしれない。少なくとも何故誰もいないのかくらいは教えてもらえるだろうし、一人ぼっちの寂しさともおさらばできる。
 

 でもモンスターだった場合、村の全員が逃げるほどの数、もしくは全員が束になっても勝てないほどの力の持ち主だ。危険すぎる。
 

 動物だった場合は問答無用で食おう。焼肉だ。
 

 少し考えたのち、宿に向かう事にした。冷静になり始めた時点で潰れたリンゴを食うという選択肢が除外され、宿に行かなければ餓死という結果しか残らなかったからだ。
 

 大股で足音を立てないようゆっくりと開けっ放しの扉へ近づいていく。

 

 そっと中を覗くが、誰も居ない。首を突っ込み周りを見渡す、やはりここも荒れており明かりもついていなかった。夕日が無ければちょっとした段差にも気がつきそうに無い。
 

 耳を澄ますが、足音どころか風の音もしない。
 

「あのー・・・・・・」
 

 小さな声で呼びかける。返事は無い。
 

 街中でなら誰にも届かず喧騒に消え入るような声だというのにやけに響く。
 

「おーい」
 

 今度は普通に呼びかける。やはり返事は無く、自分の声が響くだけ。
 

 風の音だったのだろうか。人間にせよ動物にせよ、それなりの音を立てるはずだ。 ここまで何の音もしないとなると、ゲル状のモンスターの可能性が高い。
 

 あの音はそのモンスターが何かに当たったのかもしれない。
 

 逃げようかとも思ったが、食糧を見つけていない以上、まだもう少しこの町に居る事になる。モンスターならモンスターで、隙をついて早めに倒しておくほうがいいと思い、宿の中にそっと足を踏み入れる。
 

 ギシギシと床が鳴る音、スッと剣を抜く音、そんな聞きなれた音がやけに大きく聞こえる。
 

 さっきの音が人間と動物の仕業である事を除外し、モンスターの場合にのみしぼり、最適な行動を選択する。と言っても、大した考えはなく『モンスターも村人を食い損ねて腹が減ってるんだろうな』という単純な考えで俺は台所に向かう。
 

 台所の扉も開けっ放しになっていた、中を覗く。
 

「おおッ!!」
 

 思わず声をあげてしまった、モンスターは居なかったが、変わりにたくさんの食べ物が俺を待っていたと言わんばかりに並べられていた。
 

 何種類ものパン、鳥の丸焼き、果物の盛り合わせ、でっかい鍋に入った大量のスープ、ケーキまである。
 

 どうやら何かのパーティーの準備をしていたらしい。
 

 ドタドタバタバタ大きな足音をたて料理に突っ込み、とにかく一番近いものから掴み口に放り込んでいく。
 

「モグモグ−−−おお!? こりゃうまいぞ! スープも濃厚でうまい! この肉の中には米が入ってるのか」
 

 適当に口に放り込みながらも、ちゃんと味わう。
 

 冷たくなっていたが、十分美味かった。空腹が調味料となり美味く感じただけかもしれないが、それでも美味いことには変わりない。涙が出そうだ。
 

 ―――コツ。
 

 後ろで足音がした、何かが居る。パンを咥えたまま硬直してしまう。
 

 そういえばモンスターがいるんだった、何でそんな重要な事を忘れていたのだろう。
 

 自分で言うのも何なのだが、俺は他者の感情に疎いところがある。だからと言うか、後ろからの視線が、単なる殺意というより憎しみが向けられているような気がするのだ。まず、そんな事がある訳ないのだが。
 

 モンスターが憎しみという感情を持つ事が無いわけじゃない。そりゃ、傷を負わされたり仲間を殺されたりすればモンスターだって傷つけた相手に対し怒りや憎しみを抱く事もあるのだが、大抵のモンスターからすれば人間なんて皆同じようにしか見えない。
 

 そして、俺が傷つけることのできるモンスターは低級モンスターくらいで、あいつらには人間なんて皆同じ顔にしか見えないだろうし、その場その場で怒りや憎しみを抱いても、復讐という概念があるのかは疑わしい。
 

 可能性としては、高級モンスターが何らかの理由で人間に対し憎しみを抱き、手当たり次第に人間を虐殺しているというケースも聞いたことはあるが、一番考えたくない事態だ。そうなると、後ろにいるのが何千何万人も殺している凶悪モンスターという事になるのだから。
 

 ―――コツ、コツ、コツ、
 

 夕日が沈み、今度は薄い月明かりが差し込んでくるのがわかる中、そいつはゆっくりとこちらへ近づいてくる。足音からして二足歩行のようだ。ゲル状のモンスターだと思ったんだが・・・・・・、いやいや、そんなことはもうどうでもいい。考えなければならないのはこの状況をどうやって打破するか、だ。
 

 ・・・・・・何で固まってしまったのだろう。気がつかないふりをしていれば反撃のチャンスもあったかもしれないというのに。いや、それ以前に何で台所まで来てしまったんだ、返事が無かった時点で逃げればよかったのに。いやまて、まずこの町に来た事自体・・・・・・。
 

 ダメだ、考えなければならないのは生き延びる方法だというのに、考えれば考えるほど後悔する。このまま考え続ければいずれ生まれてきた事すら後悔してしまいそうだ。
 

 ―――コツ、コツ、コツ・・・・・・。
 

 そいつは俺の真横で止まった。
 

 気配からして背は俺の肩より少し下辺り。何だ、結構小さいな。でも、小さいほうが敏速に動けるし、不意打ちの成功率も高い。暗殺には子供が最適だと言われるくらいだ、侮れない。
 

 机に放り投げた剣を手に伸ばそうと考えるが、やはり身体が動かない。
 

 目だけを横に向けると長くサラサラとした銀色の毛が見える、まるで髪の毛のようだった。・・・・・・ん?いや、これは髪の毛か?髪の毛のある高級モンスターもいるけれども、コレはもしかするともしかするかもしれない。思い切って恐る恐る首だけ動かし横を向く。
 

「お、女の子・・・・・・?」
 

 人だった。女の子だった。かわいい子だった。
 

 ん? この子・・・・・・どこかで見たことのあるような気がする、気のせいだろうか。
 

 歳は俺より下だろう、村にこういう子がいたらちょっとしたアイドルになっていそうだ。ただ、かわいいことはかわいいのだが、恐ろしいようで悲しい、悲しいようで無情な、よくわからないが人を寄せ付けない雰囲気をまとっていた。単に人を見る目が無いだけなのかもしれないが。
 

 女の子は黙々とパンを自分のバッグにつめている。当然俺がいることがわかっているだろうが、完全に無視されている。
 

 相手が普通−−−こんな奇怪な町にいる時点で普通じゃないかもしれないが−−−の女の子だと言う確証はないが、少なくとも攻撃を仕掛けてくる気配が無く安堵の溜め息が漏れる。同時に身体の硬直も解けた。
 

「えっと、この町の人?」
 

 少し緊張しながらも身体ごと女の子のほうを向きながら声をかける。
 

「・・・・・・」
 

 女の子は喋らない。
 

 小さな声で喋ったつもりは無いのだが、聞こえなかったのだろうか。
 

「この町どうしたんだ?君以外の人がいないのはどうしてだ?」
 

「・・・・・・」
 

 しつこく声をかけてみるが、返事どころかこちらを向こうともしない。

 無視だ。無視されている。少しムッとした。
 

 今までにも、こういう無口で気難しそうな人に何度も会った事があるので、普段ならそこまで気にせず去るのだが、今は非常時だ。どんな人だろうとむりやりにでも情報を聞きださなければ。
 

 こういう人を相手にするには、まず、そうだな、何でもいいから会話を弾ませる事が大事なのだ。そう、まず身近な事から会話を進めよう。
 

「あの〜、え〜っと、その〜」
 

 とにかく声を発してみたものの、後が続かない。
 

 そんな挙動不審の俺を女の子は全く気にしてないようで、黙々とパンを鞄に詰め込みつづける。
 

「・・・・・・このパンおいしいぞ」
 

「・・・・・・」
 

 手に持っていた、チョコがまぶしてあるパンをかじってみせる。無視。
 

「そ、そうだ!この肉の中にさ、米が入ってるんだ。肉汁が沁み込んでておいしいぞ」
 

「・・・・・・」
 

 テーブルに置かれている鶏の丸焼きを指さす。無視。
 

「ほら! この果物! 変な形だけど果肉甘くてうまいんだ」
 

「・・・・・・」
 

 近くにあった果物を一粒とって食べてみて見せた。やはり無視。
 

 もう疲れてきた。
 

 何でよりによって、こんな非常時にこんな非情な子に会うハメになったのだろう。こんな時、ライがいたらいいように話を進めてくれそうなのだが・・・・・・、いや、相手が女性の場合、アイツは目的の達成よりまず口説きにかかるだろうな。
 

 仕方が無いので溜め息をつきつつ、暗くてよく見えないが、月光だけを頼りに女の子に注目する。薄汚れてはいるが、旅人が好んで着る軽くて動きやすく、肌を傷つけないように露出の少ない丈夫な服。長距離を歩き色褪せ磨り減った靴。魔力の資質が無い俺にでもわかるほど異様な気配を放つ、女の子の胸あたりまで大きさがある魔術師の杖。白い肌や銀色の髪は綺麗だったが、身なりからしてどうやら俺と同じ旅人のようだ。
 

 パンを袋一杯に詰め終わった女の子は俺を無視して部屋を出て行こうとする。
 

「ちょ、ちょっとまって!」
 

 俺の声には耳をも貸さず、女の子は台所を立ち去った。
 

 本当に無愛想なヤツだ。
 

 この非常時に何を考えているんだか。
 

 異常な状況に何も感じないのだろうか。いや、もしかしたらあの子は今何が起こっているのかも、その対処法も知っているのかもしれない。それで一人だけ冷静で・・・・・・。いやいや、流石にそんなに冷酷なはずがない。考えすぎだ。
 

 とりあえず、俺もバッグと口いっぱいにパンを詰め、手にも持てるだけパンを持ち、女の子のあとを追う。

 パン詰めに時間がかかったのか、女の子が走って行ってしまったのか、部屋を出ると女の子の姿はなかった。
 

 あの音の正体がさっきの女の子だとすると、俺が宿に入るところから料理を食べているまでの時間、あの子は別の部屋にいた事になる。この宿の宿泊客なのかもしれない。
 

 パンを噛み切りながら一つ一つ部屋を回っていく。やはり誰もおらず、やたら散らかっていた。
 

 観葉植物はなぎ倒され、タンスや扉は開けっ放し、ふとんは床に落ち足跡だらけ・・・・・・相当慌てて逃げ出したらしい。俺もそんな宿の客達に劣らない速さで客室を回っていく。
 

 先ほどの宣言どおり、夕日が沈み薄い月明かりに照らされる廊下の足元はよく見えず、転がっていたモップでつまずいたり、花瓶でも置いていたのだろう机に脚をぶつけたりもしたが、そんな痛みに構わず急いでその女の子を捜す。早く見つけないとこの宿を出て行ってしまうかもしれないからだ。
 

 食糧は見つけたし、この町にはもう用が無いのだが、もしモンスターの群れがここへ襲ってきているのなら、一人で逃げるより二人で一緒に逃げたほうがいいに決まっている。
 

 六つ目の部屋でようやくさっきの子を見つけた。
 

 窓が少なく廊下より薄暗い部屋、その中でも女の子は窓から差す月光をダイレクトに浴びており、長く煌びやかな銀色の髪と上下同色の白という布着れ二枚しか纏っていない白い肌がいっそう輝きを増すようだった。
 

 着替え中だった。
 

「うわ!?ご、ゴメン!」
 

 動転しながら扉を閉める−−−閉めようとしたが、扉が外れかけており、扉を引いた瞬間こちらへ倒れてきた。
 

「ぬあッ」
 

 受け止めようと手を伸ばしたが、思ったより重く扉の下敷きになってしまう。すぐに扉をどけようとしたが、目の前で見知らぬ女の子が着替えをしているんだった。扉をどけてしまうとその光景を見てしまうことになり、それはまずい。年頃の―――年頃じゃなくてもまずいだろうが−−−女性の裸体を見るのはまずい。いや、下着はつけていたが、まずい。
 

 仕方なく黙ってそのままジッとする。
 

 そのうち着替え終わった女の子が助けてくれるだろうと信じて扉の重さに耐える。
 

 

 


 

 

  

 黙り続けて十分は経っているだろう。女の子は助けてくれるどころか声すらかけてくれない。
 

 女性は身支度に時間がかかると聞いたことがあるが、着替え自体にはそんなにかからないのではないのだろうか。下着姿にまでなっていたのだ、後は着るだけだったはずなのだがこんなに時間がかかるのだろうか。
 

 扉をどけようかとも思ったが、もしまだ着替え中だったのなら好感度ダウンは必至だ。俺は、せめて一番近い町までは一緒に行きたいと思っているのだ。こんなところで好感度を落としてたまるものか。
 

 そう思い、もう少し待ってみることにした。どのくらい待てばいいのだろうと考えながら溜め息をつき、目を伏せる。
 

 人が居たという安心感からか、少し眠くなってきたところで足音が聞こえた。こっちに向かってくる。やっと着替えが終わったらしい、助けに来てくれるのだろうとかわいい女の子との会話に期待しながら待つ。
 

 一人でもこんな扉除けられるが、こういうのは人の手を借りたほうがいいのだ。友好度がグッとあがるのだ。
 

 「ぐふァッ」
 

 不意に扉が重くなった。息苦しいが、あばらが折れるほどでもない。
 

 暴れようと思った瞬間、その重みは無くなり本来の扉の重さに戻った。
 

 足音が遠ざかっていく。どうやらあの女の子が扉ごと俺を踏んで立ち去ろうとしているようだ。
 

 何事も交渉で穏便に解決しようという信念をもっている俺でも流石に少しイラッときた。
 

「ッく・・・・・・だぁ!」
 

 掛け声と共に思いっきり力を込め扉を押す。軽くはないが、そこまで重くも無いので苦も無く退ける事が出来た。
 

「はぁはぁ・・・・・・、何考えてるんだあいつ」
 

 もしかしたら下着姿を見たことを怒っているのかもしれないが、扉の下敷きになっている人間を踏みつける事か?
 

 やっぱり一人で町を出ようか。
 

 最初は誰かと一緒なら寂しさ半分苦労も半分に出来るだろうと思っていたのだけど、正直あの女の子と一緒に居ると怒り倍増苦労も倍増しそうだ。
 

 だけど、あの子が一人とは限らない。
 

 あの子の態度は悪いが、もしパーティーを組んでいるのなら、その中に一人くらい話の合う楽しい人もいるかもしれない。たとえ一人だとしても、あの子は一人旅が出来るほどの能力を持っているということで、そばに居ればモンスターを心配する事が無いということだ。
 

 町を出た瞬間モンスターの群れにばったり遭遇しないとも限らない。多少ムカつくことがあったとしても、命には代えられない。
 

 追おう。
 

 自分の非力さとあの女の子の態度にイライラしつつも、俺は女の子のあとをふらふらと追った。
 

 俺が追いつく頃には女の子はもう宿の外に出ていた。
 

 町に人工的な明かりは一切無く、頼りの月も半分しか輝いていない。宿の中よりは月の光を遮る壁がない分明るいので別に困る事は無いのだが、薄暗い事には変わりなく、出来ればモンスターには会いたくない。
 

「ちょっとまってくれってば! 悪かったよ!」
 

「・・・・・・」
 

 さっきから何度も叫んでいるのだが、女の子は立ち止まる事も振り返る事もしない。
 

 着替えで汚れはなくなったが、さっきと然程変わらない、動きやすい、冒険者向きの服装になった女の子。特にオシャレな格好では無いのだが、汚れが無くなっただけで美少女と言う印象が数段増す。ドレスでも着て舞踏会に出た日には、どれだけの男が魅了されるだろうか。
 

 まぁ、まずはこの性格を直してからの話だが。
 

「さっきの事は悪かった。確かにあれは俺が悪かったけど、台所で無視したのもどうかと思うぞ。あれが無かったら俺だって追わなかったんだ。言い訳だっていうのはわかってるけどさ、それでもその態度はあんまりじゃないか?」
 

「・・・・・・」
 

 歩く女の子の後をついて行きながら、とにかく弁解を重ねる。
 

「いや、悪かったよ。頼むから話を聞いてくれって・・・・・・。俺はこの町からさっさと出ようと思うんだ。でも、一人より二人で出たほうがいいだろ? だから一緒に行かない? ここから一番近い町ってどこだったっけ? ああ、それよりさ、他に仲間とかいないの? 出来れば会っておきたいんだけど」
 

「・・・・・・さい」
 

 やっと女の子が何かを喋ってくれたが、小さく聞き取れなかった。
 

「え? 今なんて?」
 

 問い掛けに女の子が振り向いた。
 

「五月蝿い」
 

 冷たい。とても冷たい眼差しで俺は射抜かれた。
 

 身体だけでなく心まで凍りつくような一直線な眼差し。
 

 その場に立ち尽くす俺を置き去りに、女の子は再び歩き出した。追いかける気力をなくした俺はただただ呆然と女の子の背中を見送る。女の子が怖かったという理由だけじゃない、思い出したのだ。
 

 あの眼。
 

 あの眼とあの顔はそう、教会のエセ神父から見せられた手配書に載っていた一番賞金の高い女の子。世界的に有名な女の子だった。
 

 あのエセ神父も言っていた。
 

『この者は悪魔に魂を売り渡し、神に見放されし少女―――いえ、悪魔です。いずれ残酷な死が待っているでしょう』
 

 あの、へらへら笑うことしかしないエセ神父が最初で最後の真剣な顔で言ったのだ。
 

 そう、目の前を歩いていく美しい後ろ姿は悪魔。世界が恐れる『悪魔の子』
 

 あの子が通ったあとには落ち葉一つ残らないと言われている。
 

 理由は・・・・・・、覚えてない。とにかく恐ろしいと聞いた。
 

 仕方ないだろう、熱にうなされているところをムリヤリ聞かされたのだ、うつろにしか覚えていない。
 

 もっと言ってしまうと、あの手配書だって朝食に出されたジャガイモ二つが六つに見える目で見たものだ。
 

 『悪魔の子』があの子だという証拠は無い。
 

 でも可能性はあるのだ、最高級の賞金首だという可能性が。モンスターよりもたちが悪い。回れ右して立ち去ろう。
 

 その時だった。
 

「クギャアアアアアッ!!」
 

 この世のものとは思えない雄叫び。
 

 ある時は森に迷い込んだ旅人を襲い、ある時は食糧を求めて人間が住まう町や村まで群れでやってくる、人間に疎まれ恐怖されるこの世界に不必要な存在。 
 

 そう、モンスターの雄叫びが遠くから聞こえた。
 

「クギャアアアアアアアッ!!」
 

 声はどんどん近づいてくる。
 

 身を守るため剣を抜こうとした瞬間、空から大きな何かが降ってきた。
 

「んな!?」
 

 後ろに飛び退き、その何かをかわす。
 

 地面に激突したそれは、コンクリートを破壊し土煙をたてながら猛スピードでこちらへ向かってきた。
 

 そいつは人間ほどの大きさをした鳥型のモンスターだった。
 

 見るからに汚いもみくちゃな黒い羽、鉄錆色をしたクチバシ、通常の鳥じゃ持ち得ないほどの殺意、集団じゃなくてよかった。
 

「クギャアアア!!」
 

 甲高い声をあげながら突進してくるモンスター。
 

 横に跳躍しながら剣を抜く、そのまま振り下ろそうとするが、その前にモンスターが腹部ギリギリをすり抜けていく。直後、ちょっとした突風が髪を撫でる。
 

 モンスターはそのまま数メートル直進したのち上昇しながらUターンしてきた。どうやら突っ込んでくる以外能の無い低級モンスターのようだ。覚えているだけでも五年は付き合ってきた剣を下段に構え、又も同じように上空から勢いをつけて突っ込んでくるモンスターを待つ。だてに二年間も旅をしてない、俺だって単純に突っ込んでくるだけのモンスターを切りつけるタイミングなら計れるさ。
 

 グングンスピードを上げて近寄ってくるモンスター、焦りで冷や汗が出てきた。落ち着くために声に出しタイミングを計る。
 

「3・・・・・・2・・・・・・1・・・・・・ッ!!」
 

 一歩踏み出し全力で剣を振り上げる。予想以上に重い衝撃が剣に走ったのも一瞬だった。
 

「クゲェエエエエッ!!」
 

 苦痛の叫び。
 

 剣は狙い通り翼を引き裂き、モンスターはスピードを落とさぬまま回転し、家に衝突して動かなくなった。動けたとしても翼が無くなった今追ってくる方法は無いだろう。
 

 剣を鞘に収めようともせず、俺は走る。
 

 当然、町の出口へだ。
 

 まだモンスターの群れ全体は町に到着していない。
 

 雄叫びももう他には聞こえず静かな物だ。
 

 もしかするとさっきのモンスターは群れに所属していない単独のモンスターで、群れが近寄ってきている何て言うのは俺の思い込みなんじゃないだろうかとも考えたが、もし群れが近寄ってきていた場合取り返しがつかない事になるし、もうこの町には何の未練も無いのでその可能性はとりあえず捨て置いた。
 

 今のうちに、町から出てさっきのモンスターが現れた方向とは正反対に全速力で逃げるのだ。今なら、今ならまだ間に合う。
 

 今すぐに町から逃げればまだ群れに存在を気づかれないかもしれない。
 

 モンスターだって人間だけを食べるわけじゃない。町を襲う場合は町から逃げた人間より、町に残っている食糧を優先して食べるのだ。
 

 人間を相手にすると、当然死ぬ可能性もある。それをちゃんとわかっているのだろう。だから大抵のモンスターは、直接俺の方へ向かってこずに、まずは町を隅々まで探索して俺を追ってくるだろう。
 

 それにしても不思議なのは、一匹しか鳥型のモンスターが居ないということだ。群れのモンスターが、しかも低級が一匹で行動するなんてことはまずない。
 

 群れの中でも『グループ』がある、かならず二匹以上―――大きい群れでは十匹単位で行動する。中級・高級モンスターのグループの場合は、全員がある程度の能を持っているため食糧を独り占めしようとするヤツや、探索範囲を広げようと一時バラバラになったりもするが、さっきのモンスターは明らかに低級だった。低級モンスターからするとグループと言う存在は身体の一部なのだ。グループの中でも多少頭のいいヤツが『リーダー』となり、リーダーが命令を下せば生存本能すら無いのかもしれない『メンバー』と呼ばれる無能な低級モンスターはそれに従う。
 

 例えばグループのリーダーが誤ってマグマの中に飛び込んだとする、そうするとグループの『メンバー』は次々とマグマの中に飛び込み死んでいくのだ。まさに、低級モンスターのグループは一心同体一蓮托生なのである。なのに、さっき俺を襲ったモンスターは単独だった。仲間を呼びに行く知識なんて無いだろうし、もしかすると俺を襲ったモンスターは新入りでグループからはぐれたのかもしれない。
 

 もしさっきのモンスターがグループからはぐれたのだとすると、残りのメンバーは何処に行ったのだろう。
 

 俺以外にいい食糧があったのだろうか、この町にまだ残っている食糧といえばあの宿にあった豪勢な料理だが、鳥型モンスターは家の中までは入らない。となると、潰れたリンゴでも食べているのだろう。自分の仲間ですら死んだら食うのだ、モンスターからすれば多少の砂なんて許容範囲内なんだろう。
 

 それとも、他にも何か食糧があったのだろうか、木に実が生っていたとか田があったとか、それこそ俺より美味しそうな肉の塊があったとか。
 

 でも、この町に来て隅々まで見て回ったが豚や牛は疎か猫一匹いなかったはずだ、他に何か美味しそうなものなんて−−−ああ、そうか、いるんだった。
 

 そうだった、モンスターの事ですっかり忘れていたが、あの最高級の賞金首と思われる女の子がいるんだった。
 

 足を止める。
 

 この町の周りは戦争の名残で高い塀に囲われており、出入り口は一つ、そしてあの女の子が向かった方向は出入り口とは正反対。
 

 あの子の所へ行くべきだろうか。
 

 あの子が本当に最高級の賞金首なら、俺が行かなくても自分で対処できる、むしろ俺が邪魔をしてしまうことになるだろう。いや、それどころか俺も殺されてしまうかもしれない。
 

 でも、もしあの子が普通の女の子だったら? モンスターに殺されてしまうだろう、確実に。だが、俺が行ったって、鳥型モンスターのグループは何とか倒せたとしても、群れから逃げられる確証は無い。
 

 今なら、俺一人なら逃げられる。確実に逃げられるんだ。
 

 でも、あの子を見捨てるのか?見捨ててもいいのか?
 

 俺は迷った。
 

 軽く三十秒は迷った。
 

 末に、俺は走り出した。
 

 出口とは正反対へ。

 

 

 

 

 

 

 たとえばこういうことだ。 

 

 荒れ野に近寄りがたいほど可憐で綺麗な花が一輪咲いているとしよう。凶悪な虫がいまかいまかと花を襲う機会を待ち、異常な繁殖力と耐久力を持っている雑草が花の摂取しようとした栄養まで奪ってしまう。当然花にはどうする事も出来ず、結果、枯れ果てる。外部からの助けが無い限り必然的にこうなるわけなのだ。
 

 そこで俺が除草剤と殺虫剤・・・・・まで強力とは行かないが、スコップとピンセットを持ち花を狙う悪者を取り払ってやろうと走ってきた。
 

 当然、俺が何の見返りも求めていない訳が無い。あわよくば、その花を持ち帰ろうと考えていた。少なくとも、花壇に持ち運ぶ位はさせてもらえるだろう。
 

 花を狙って襲ってくるヤツは全員蹴散らす気でいた。
 

 負けた時の覚悟もあった。
 

 だが、荒れ野の一輪でポツンと咲いていただけあり、花は自分の身を守る方法を心得ていたらしい。
 

 周りの雑草まで栄養と変え、襲ってくる虫をも捕食するほどの力。
 

 いや、もしかすると可憐で綺麗な花というのは見せかけで、本当はひ弱な花のふりをして近寄ってくるヤツを無差別に食べてしまう怪物なんじゃないだろうか。

 もしそうなのだとすると、俺はどうしたらいいのだろう。
 

 数十匹の鳥型モンスターを強力な魔法で一気に蹴散らした怪物の後姿を目の前に、俺はどうしたらいいのだろう。
 

 頭では目の前の女の子が恐怖だと理解しているのだが、逃げようと身体を反転させようとしても動いてくれない。いや、理解しているからこそ動いてくれないのかもしれない。
 

 どちらにせよ、先ほど空中を素早く飛び回る何十匹もの鳥型モンスターを、見たことも無い巨大な氷刃で一度に両断した凶悪犯罪者かもしれない女の子を目の前に動けないというのは死を意味するんじゃないだろうか。
 

 動けても目を付けられれば簡単に殺されるだろうが、今はまだ気づかれてないはずだ。
 

 今すぐ反転して走れば追いつかれないはずだ。
 

 逃げ延びれるはずなのに、身体が動いてくれない。全くもって情けない。
 

 ふと、後ろから殺気を感じた。
 

 さっきまでピクリとも動いてくれなかった身体が横に飛び跳ねる。ビュンと、先ほどまで俺が居た場所に鳥型モンスターが猛スピードで突進をしてきた。避けなければかなりのダメージを負っただろう。
 

 モンスターはまだ加速を続け、そのまま女の子の方に向かっていった。
 

「危ない!!」
 

 俺はとっさに叫んだ。
 

 女の子は素早く振り向き、杖を構え、小さく呪文の詠唱を始める。数秒も掛からないうちに呪文の詠唱は終わり、杖から大きな火の玉が現れ、突進してくる鳥型モンスターを飲み込みそのまま消滅した。
 

 これまた、見たことの無い大きさの火の玉だった。
 

 呆然としている間は無く、俺が走ってきた方向・・・・・・町の出入り口方面から咆哮が聞こえた。モンスターのものだ。
 

 目を凝らして見て見るが、かなり距離があるので当然何も見えない。
 

 だが、これでもう逃げる方法が無くなったわけだ。隠れて運良く見つからない事を祈るのみである。
 

 視線を感じ振り向くと、遠くで女の子がこちらを見ていた。俺と同じく町の出入り口を見ていたのかもしれないが、振り向いてしまった以上無視するわけにもいかず、普通を装い内心ドキドキしながら女の子に向かって走る。
 

 女の子は俺が着く前に反転し、歩き出した。俺の事などどうでもいいようだ。
 

 でも、俺に後ろを見せると言う事は少なくとも敵とは認識していないようだ。素直に嬉しいことである。
 

 追いつく頃には、女の子はもう町の出入り口とは正反対の端にある教会まで着き、立ち止まっていた。
 

「ここに用事?」
 

 声をかけてみるがやはり無視、少なくとも俺を待っていてくれたわけではないようだ。そのまま教会に入っていく女の子にイライラすることも無くついていく。
 

 多少大きな町だけあって、教会自体が大きいが、この教会の中はありふれたシンプルな構造だった。三列に並んだ長椅子、奥には祭壇、大きなパイプオルガンもある。出入り口は一つで、窓も少ない、こんなところで襲われたら一溜まりも無いだろう。
 

 数多くの信者を持っている教会なので、ここも町同様逃げる時にかなり散らかされているものだと思ったが、元々この町には信者が少なかったのか、出て行くときに神父やシスターが整理したのか、綺麗なものだった。
 

 違うのは昼夜問わず誰かがお祈りをしているはずなのに誰もいない事と、天井に絵が書いてある採光窓があるにもかかわらず、半月だからか月光があまり差し込んでこず、随分と暗かったことくらいだ。
 

 女の子は入り口付近の机に置いてあったランタンにマッチで火を灯し、そのランタンの火を今度は教会中の燭台に灯し始めた。
 

 ふと疑問が浮かんだ。さっき、あんなにもすごい魔法を使って見せたのに何故魔法で火をつけないのだろう。
 

 もしかしたら、さっきの戦闘の魔法で力を使い果たしたのかもしれない、見たところ剣を持っているわけでも無さそうで、もし本当に力を使い果たしているのなら次からの戦闘は剣士である俺に頼るしかなくなる。男の見せ所だ。
 

 でもそうと決まったわけではなく、火の魔法を学んでないだけかもしれないし、力の温存のためかもしれないので滅多な真似は出来ない。
 

 滅多な真似って言っても別に何をするってわけじゃない。ただ発言や行動には注意しないと殺されるかもしれないと言うことだ。
 

 女の子は一人黙々と広い教会を回りながら多数の燭台に火を灯し、最後に祭壇の燭台にも火を灯し終える。俺はその間考え事に没頭しており何一つ手伝っていない。その時点でかなり男が廃っている気もするが、まだまだこれからが勝負なのである。
 

 全ての燭台に火が灯ると、教会内は予想以上に明るくなった。きっと外のモンスター達にもここに何かがあるとよくわかるだろう、これで気が付かないほど低能なモンスターなら苦労はしない。
 

 蝋燭の火で影が揺らめき目がクラクラしてくる中、女の子はパイプオルガンを眺めたり装飾品を手に取ったりし始めた。
 

「ま、まさか持ち逃げする気じゃ・・・・・・」
 

 不審な行動をしている女の子を見て思わず口にしていたが、女の子に届かなかったのか、またも無視しているのか無反応。
 

 モンスターがすぐそこまで迫ってきているというのに、命の危険を顧みずわざわざ誰も居ない教会に上がりこむと言うのは、よほどの信者か泥棒くらいだ。
 

 この女の子は祈ろうとはせず、高そうな蝋燭を手に取ったり美しい像を眺めている。この態度からして信者では無さそうだし、やはり泥棒なんだろうか。世界最大の泥棒として名を馳せているのだろうか。落ち葉一つ残さず盗むのだろうか。
 

 確かにモンスターの群れに襲われた村はほぼ壊滅状態となり、そこにあった高価なものも壊されて全く価値がなくなったりもする。でも、それは結局人のものである。
 

 運よく壊されないものもあるわけであり、その可能性を秘めたものを勝手に持っていくのは泥棒に変わりないのだ。ばれなければ何をやってもいいというわけではないのである。
 

 というわけで、俺は女の子を止めないといけないのだが、本当に持ち去ろうとしていると言う確証はないのでまだ口を挟まない。別に『さっきの魔法を使われたら確実に死ぬな』とか考えてやめたわけじゃない。
 

 何もしないのも変な気がするので、女の子に何をしているのか聞こうと祭壇に向かう途中、偶然長椅子の下に布のようなものを見つけた。
 

 特に気にならなかったが、あの女の子と話を進める心の準備がまだ出来て無く、その布で時間を稼ぐ事にした。
 

 腰を屈め布を引っ張ると、それはズシリとかなり重い袋だった。
 

「なんだ? 忘れ物か?」
 

 中を見るのは気が引けたが、多少の興味と時間稼ぎのために袋を開く。
 

「本ばかりだな・・・・・・」
 

 中には聖書と思しき物が大量に詰め込まれていた。神話に関する本や魔術書もある。
本以外は何も入っていないのかと思ったが、一番奥の本の下に隠されたように一本の短剣があった。装飾は地味だったが、鞘から剣柄にかけて全てが銀色に輝いており、それを隠すように真っ白い布が剣柄にだけかけられていた。
 

 銀で出来ているのだろうか。まるで剣に手が引っぱられる様にゆっくりと手を伸ばし、布ごと手に取ると、それは羽のように軽かった。銀ではないようだ。刃渡りは三十センチと言ったところで、鞘から抜いてみると刃も銀色に輝いていた。
 

 金貨十枚もする物を銅貨十枚で買えると思っていた価値観の無い俺でもわかる、これはとてもいいものだ、きっとすごく高い。売れば金貨三十枚以上になるだろう。
 

 もしあの女の子が本当に泥棒ならば、必ずコレを欲しがるはずだ。
 

 隠さなければと思った刹那、いつの間にか背後に居た女の子が置いてあった本を袋ごと奪いとった。慌てて剣だけは守り通そうと服の下に隠す。
 

 ゆっくり振り向くと、女の子はいくつか袋から本を取り自分のバッグに詰めていた。
 

 やっぱりか、やっぱり泥棒か。
 

 昔泥棒に入られ、貯めに貯めた銅貨五十枚を根こそぎ奪われた事を思い出しその時怨みが甦る。その泥棒は男で、しかも四十歳を過ぎていただろう顔立ちをしていたが、泥棒と聞くだけで全てあの男と性質がかぶり、なんだかイライラしてくる。
 

 とはいえ、さきほど魔法の威力を存分に見せ付けられたうえで『お前泥棒だろやめろよそういうことはいいか人間はもっと真っ当に生きられるんだよ特に君のようなかわいい子なら嫁の貰い手はたくさんあるだろうし何処かのお店で看板娘をやることだって絶対可能だああでもそういうお店はダメだぞ普通の飯屋にするんだだから今すぐこういうことはやめるんだ今ならまだ間に合うもう随分高めの賞金をかけられているけど大丈夫小さい村にならそんな情報届いてないはずだから大丈夫君のためにも俺のためにもやめてくれ』なんて、説教染みた事を言う勇気は無い。
 

 でも、もしかするとそういってほしいのかもしれない。
 

 『最初は遊びでやってみたことが今じゃ取り返しのつかない所まで来てしまいどうしようもなくなった』と言う盗人の劇を見たことがある。一人の少女のおかげで更生してまともな職に就くことが出来、最後はその少女と結婚までするという感動作だ。感激のあまり一緒に見ていたミナは泣き出した。
 

 この子はどう見ても十五・六歳で丁度反抗期だ。きっとお金が無いから物を盗んで、盗んだものを売ると予想以上の金になって、欲しい物を買って、またお金が無くなったから盗んで、売って、コレを繰り返しているうちに金銭感覚が狂ってやめられなくなったのだ。そうに違いない。で、それを俺が更生させてあげてゆくゆくは結婚−−−いやいや、俺はそんないやしい考えなんて持ってない。単純にこの女の子に罪を犯させたくないんだ。
 

 だから俺は気に障らない程度に声をかけてみる事にした。下心なんて全く無い。
 

「その本、どうするんだ?」
 

 女の子はこちらを見向きもせず残った本を俺の前に投げるように置く。
 

 しまった、少しストレートだったか? なんだか娘の心を知ろうとする父親の気分だ。なんか嫌だ。
 

 女の子はまたも祭壇に向かっていった。残った本を一瞥し、元の半分も本が無い事を確認。結構分厚く重い本もあったのだがそれも無くなっている。重くないんだろうか。
 

 教会らしいシンとした空気が再び戻ってくる。閑寂は嫌いじゃないんだが、この緊張感漂う静寂とした雰囲気は苦手である。
 

 話を適当に変える事にする。
 

「これからどうするんだ? たぶん、町にはモンスターが入り込んでるし・・・・・・俺はこのまま何処かに隠れて騎士団が助けてくるか、モンスターの群れが立ち去るまで待とうと思う。君はどうする?」
 

 立ち上がりながら出来るだけ気楽そうに尋ねたが返答は無かった。
 

 ハッキリ言って今この状況はかなりの恐怖である。
 

 今までも生命の危機に晒される事は何度も、何度もあった。でもこんな逃げ場の無い状況に追い込まれた事は初めてなのだ。逃げ場がないという恐怖は途轍もない。一思いに首を刎ねられ死ぬほうが何倍もマシなんじゃないだろうか。
 

 それなのに再び祭壇を物色しているあの子は何だ。
 

 何故そんなに平然としていられるのだ。
 

 一見ただの女の子で最高級の賞金首だろう彼女はこんな状況を物ともしないほど修羅場をくぐってきたのだろうか。
 

 それとも、すでにこの町から脱出する手段が整っているのかもしれない。
 

 なら、この子について行けば俺も脱出できるかもしれない。一人乗りの気球とかなら泣く泣く身を引く事になるが。
 

 溜め息をつきながら女の子に近づく。流石にいきなり攻撃されたりしないだろう。
 

 またも何もすることがなくなったので、女の子の邪魔にならない程度に離れた距離で俺も普段お目にかかるのも難しい高級品に触れてみる。盗む気は全く無い。
 

 女神を模ってあるその像は冷たく、やけに重かった。何で出来ているのだろう。
 

 元の位置に戻し、別の物を見ようと方向転換すると同時に肘に何かがぶつかり、「あ」と情けない声を出す前にそれは俺の肘に弾かれ、床に落ち大きな音を立てて割れた。さっきの像とはまた違う高そうな像だった。
 

「ああああああッ!」
 

 悲痛な叫びをあげながら、俺はその像を追う様にその場で崩れ、像に寄り添う。
 

 元はどんな形をしていたかも知らないその像からは、やっぱり元はどんな形をしていたか読み取れないほどバラバラに崩れていた。
 

 これはまずい、弁償出来るほど俺は金を持っていない。
 

 もしもこの像がそれほど重要なものなら、弁償できるできないに関わらず信者からに刺されるかもしれない。
 

 その以前に、今この像を割った時点で神から呪われたかもしれない。
 

 半分泣きながら苦悶していると、割れた像の中から光沢を放つ小さな物体を見つけた。
 

 像の破片が手に刺さるかもしれないという事も考えず現実から逃げるようにそれを掴み引き寄せる。
 

「何だ・・・・・・? 指輪?」
 

 それは、またも銀色で軽い指輪だった。
 

 今度はそれほど高級感のあるものじゃないが、何処か惹かれるところがある。とはいえ、持って行く気はない。全く無い。
 

 持ち主には悪いが、指輪ごと割れた像をこのまま放置してモンスターがやったことにしよう、神のみぞ知る俺の悪行も信者にばれなきゃ少なくとも刺されることも弁償させられる事もないんだ。どうせここにもモンスターがやってきて全部破壊していくんだから俺が壊したなんてわかるわけがない。ばれなきゃいいんだ、そうだそうしよう。
 

 そっと指輪を元の位置に戻し立ち上がる。
 

 すぐ横に無表情に割れた像の残骸を見下ろす女の子がいた。
 

 驚きのあまり女の子と逆方向に飛び跳ね、それが災いし、祭壇にぶつかり又も像を落としてしまった。今度は三つ同時に。今度の像が丈夫だったのかさっきの像がモロかったのか、割れると言うよりは首や腕など、細い部分が折れるだけだったということが唯一の救いである。
 

「あああああああッ!? またもや俺はあああああッ!!」
 

 とはいえ、俺には手が届かない値段だろう像を損傷させた事は間違いなく、絶叫しつつ頭を抱えるが、俺だとわからなければ大丈夫だと言う結論をさっき出したばかりだったと思い出し、少なくとも三つの像については責任の半分を担う女の子の方を見ると、俺の絶叫に何の反応もせずさっきの銀の指輪を手に取っているところだった。
 

 あんな価値の無さそうなものまで持っていくのだろうか。そりゃ、売れば少しは金になるだろうが、もっといいものはたくさんある。
 

「俺には価値観ないからわかんないけど、それって高級な物か? そんなに価値があるとは思えないんだけど」
 

 多少あの指輪の価格に興味があったのと、とにかく会話をして仲良くなり一緒に脱出させてもらおうと思い話を振ってみるが、自分でもわかるほど力の入ってない声だった。像を割ってしまったのとどうせ返事は返ってこないだろうという思い込みからだったのだろう。
 

「うん」
 

 驚いた。たぶん顔にも出てたと思う。マヌケにポカンとしか顔を見られなくて良かった。
 

 今までの経緯から全くと言っていいほど返答は期待していなかったのだが、小さくとも、指輪を懐かしそうに嬉しそうに見てこちらを気にかけていなくとも、確かに女の子は俺の言葉に反応してくれた。
 

 返事をされたらそれに続いて話を盛り上げようと心に決めていたのに、全く予想外のところで返事がきたので困惑してしまう。結局、何の応答も出来ずに次の障害が現れた。

 ―――バン!

 何かが扉にぶつかったかと思うと軽々とぶち破って、人間全てに幸せと試練を与える神が祭られているらしい神聖な教会に、人間最大の天敵とされる愚劣で醜悪なモンスターが侵入してきた。
 

 漆黒の毛並みで犬のような形をしているソレは、犬の何倍も大きく、隣で冷たい目をして泰然としている女の子なら軽々丸呑みできるだろう。
 

 真っ赤な目で俺達を確認すると身震いするように雄叫びをあげた。耳元で叫ばれたら鼓膜が破けるんじゃないかと思うほどの大声。すぐに同じようなモンスターが数匹集まってくる。確かこいつらにも『ヘルバウンド』だったか『ブラックファング』だったか、しっかりとした名前があったはずだが、覚えていない。とはいえ、無いと色々不便なので今は『大犬』でいいだろう。
 

 ハッキリ言ってしまうと、こんな大きくて強そうなヤツら一匹も倒せる自信が無い。
 

 とはいえ、ここで引いたら格好がつかない。女の子は守るものだと常々クレイに言い聞かされたのだ、破ったら今度会ったときに何をされるかわからない。
 

 愛剣を構える。震えてはいなかったと思う。
 

「邪魔」
 

 女の子は俺が勇猛果敢に突っ込もうとするのを冷たい声で遮り、数歩前に出た。仲間が全員集まったのか、それとも女の子が発する凄絶な殺気に身の危険を感じたのか、大犬達は間合いを詰めながら女の子を要に扇形をとる。非常口として使おうと考えていた数少ない窓は大犬達にの後方にあるため、完全に出口を塞がれるかたちとなった。邪魔者扱いされた俺は渋々といった感じで後退するが、内心は安堵で一杯だ。
 

 一匹の大犬が正面から突撃した。せっかくの扇形だと言うのに他の大犬はただ静観しているだけだ。まず一匹で相手の力を図ろうとしているのかもしれない。女の子が口を動かしながらそっと杖を振ると大犬達より一回り大きな氷の塊が現れ、突進してくる大犬の上に落ちる。『グシャッ』と嫌な音がしたと同時に、圧迫された大犬の身体が変形して氷の下から飛び出てきた。紅い血の海が出来る。
 

 思ったよりあっさり終わったなと思ったのも束の間、いつの間にか二匹の大犬が駆けていた。女の子がさっきよりも少し長く詠唱し、杖を振ると、今度は鋭く尖った氷の矢が多数飛んでいった。大犬はあの大きな図体で華麗な動きを見せ、氷の矢をいくつかかわしたものの、ハイスピードで大量に飛んでくる氷の矢を全てかわす事は出来ず、いくつもの大きな穴を身体に空けその場に倒れこみ二匹とも息絶える。
 

 静寂。残りの大犬は唸り声をあげているものの、襲ってくる様子は無い。実力の差がわかったようだ。さっきの行動は何らかの囮作戦のようだったが、ああもあっさりやられては囮の意味も無い。
 

 この連携と学習能力からして中級クラスのモンスターだろう。『中級って言ってもこんな女の子にやられるなんて大した事無いな』なんて思う一般人が多そうな光景だが、決してそうではない、本当にあの女の子が強いのだ。特性やいくらかの能力差はあるが、中級一匹でも素人ばかりの小さな村なら滅ぼしてしまう事が出来る。その中級を一人で次々と倒すのだ。やっぱりこの子はタダモノじゃない。いや、それ以前に中級がこんなに多い群れなんて滅多にお目にかかれない。かかりたくない。
 

 女の子も身構えてはいるがこちらから仕掛ける気は無さそうだ。確かに、この状況で下手に動けば隙が出来るだろう。相手の出方を見る戦法か、俺に女の子ほどの力があればそうしているだろうけど、時間をかければ更に敵が集まってくるというリスクもある。いや、敵は中級モンスターだ、たぶんこのまま膠着状態を続けて仲間が来るのを待つ気だろう。女の子もその事に気が付いているのだろうが、下手に動けずどうしようもないのだ、そう、つまり俺に助けを求めているのである。ここは俺が何らかの行動を起こし膠着状態を断ち切りモンスターの群れを壊滅させ二人で町を脱出しなければ。
 

 何か無いかとあたりを見渡してみるが、変わったところは特に無い。ただ、丁度女の子と大犬の中にさっきまで立っていた燭台が何らかのショックで倒れているくらいだ。
 

「げッ!?」
 

 しばらく床に揺らめく炎をぼんやり眺めていてその危険性に気がついた。が、時すでに遅く、炎は床に引火した。まだ規模の小さい火災だが、濛々と黒煙が立ち込める。女の子と大犬達はそれを気にしていないかのようににらみ合い続けている。
 

「まっずいぞ・・・・・・このままじゃ・・・・・・」
 

 炎はどんどん激しさを増すが、まだ消火できないほどでもない。バッグを叩きつけて消火しようと火災現場に急行する。だが、そんな俺の善良で隙だらけの行動を見過ごしてくれるほど大犬達は甘くなかった。突っ走ると同時に、一匹の大犬が俺の向かう方向に火の玉を吐いた。結果、火に油を注ぐどころか火に猛火をぶつけてしまう事になり勢いが増すどころか、床が衝撃で壊れ、燃え尽き一気に炎上する。
 

「んな・・・・・・ッ、コイツら火を吐くのか!」
 

 火を吐くと言う事は多少たりとも炎に対する耐性があるだろう。このまま膠着状態が続けば俺達は焼け死ぬが、多少の炎耐性がある大犬達は生き残るということで、しかも大犬達側に出口があるので教会が崩れても大犬達は脱出が可能なのである。もしかしてコレを狙って火を吐いたのかもしれない。さすが中級は脳の出来が違う。
 

 感心している場合じゃないな。火を消すのはもう無理となった今、さっさと大犬達を倒すか別に出口を探すしかない。
 

 もう一度周りを見渡すが、やはり出口になりそうな場所は無かった。
 

「ゴホッ、煙が・・・・・・肺は弱い方なのに」
 

 黒煙に巻かれ目が痛くなり喉が熱くなる。そういえば煙を吸いすぎても死ぬんじゃなかったか? 煙を吸うまいと息を止めてみるがすぐに苦しくなる。どうしろっていうんだ。
 

 どんどん炎が激しさを増す中、せめて通気孔を作って酸素を確保しようと考えるが、窓に辿り着くには少なくとも一匹は大犬を倒さなければならない。いや、俺が突っ込むと同時に何匹かが俺に向かって襲ってくるのは確実だろう。
 

 なら天井の採光窓をぶち壊そう、壊すために投げる物は祭壇の像だ。四つも壊した今、あと一つや二つ変わりはしない。どうせモンスターが攻めてきたんだ、全部ぶっ壊されるだろう。
 

 剣を鞘に収めるかわりに槍を持った戦士の像を手に取り、全力で投げようと何年ぶりかの投球フォームを取り天井を見上げると、採光窓の向こうに黒く蠢く物体を見つけた。絵で黒い塊としか見て取れないが、その塊はかなりの大きさで、音を立てないようにゆっくりと動いているようだ。自分が子供の頃に覚えさせられた、間違ったマヌケな投球フォームをしている事も忘れて黒い塊の観察していると、それは女の子の真上で止まった。
 

「・・・・・・まさか!?」
 

 深く考えているうちに薄くなった黒い塊、手に持った像が損傷するだろう事も気に留めず放り投げ、俺は女の子に向かって走る。だんだん濃くなる天井の影、黒煙で息苦しくなっていく中全力で走るが間に合うかどうかわからない。『バリン』と採光窓が割れ、一匹の大犬と無数のガラスの破片が女の子に降り注ぐ。女の子も、雄叫びを上げ降下してくる大犬に気づき詠唱を始めようとするが、間に合わない。初めて焦りの表情を見た。
 

 何かが降って来る事にいち早く気づき、女の子を危機から救おうと全力疾走していた俺は、勢いを落とす事も出来ずに女の子に抱きつくようにぶつかり、床に倒れこむ。女の子に衝突した時の衝撃も、女の子に体重が掛からないよう手を床につき四つん這いの格好をした時の腕の激痛もかなりのものだった。
 

「いつつ・・・・・・だ、大丈夫?」
 

 腕の激痛に耐えながら引きつってるだろう顔で訊ねるが、予想以上に近い距離で無表情な顔をしている女の子を直視し、頭に血が上る。純真無垢な健全男子として仕方ない事なのだが、今はこんな事をしている場合じゃない。
 

 すぐさま立ち上がり、剣を正眼に構える。既に真正面に居る天井から降って来た大犬だけでなく、女の子と睨み合いを続けていた大犬達も、体勢を崩した今がチャンスと言わんばかりに駆けていた。
 

 だが、大犬が天井に穴を開けてくれたおかげで煙が逃げていく。これで窒息死の確率は大幅に下がり、目の痛みも楽になった。
 

 まず、一番近い俺達を窒息から救ってくれた大犬が、鋭く尖った爪を天高く振り翳し飛びかかってくる。振り下ろした爪を愛剣で受け止めるが、重い衝撃に膝を床につく。
 

「その体格で体重を掛けるのは卑怯なんじゃ・・・・・・」
 

 抗議をしてみるが通じるわけなく、グルルルと唸り声を上げながら更に体重を加えられ、ジリジリと爪に押されて剣が顔に近寄ってくる。このままじゃ自分の愛剣に命を絶たれる事になってしまう。
 

 恩知らずな愛剣が俺の額の皮を斬ろうとしやがったその時、後ろから大犬を目掛けて大きな氷の矢が飛んできた。見事に大犬の顔を潰した氷の矢は、勢いを弱めぬまま大犬を押し退けてくれた。女の子が援護をしてくれたんだろうが、礼を言うどころか後ろを確認する暇もなく次々と大犬が飛び掛ってくる。
 

「勝てる気がしない!」
 

 高々と敗北宣言をしながら剣を振るう。大犬の爪と『ギン!』と音を立てぶつかり合う。
 

 自慢の愛剣は俺に似つかわしくなく、世界有数の名剣だ。鈍らな剣なら刃と刃でぶつけあっても真っ二つにする事が出来るほどで、薪割りも下手な斧よりラクに出来る。その剣で思いっきり斬りつけられて、傷一つ付かない大犬の爪・・・・・・これは高く売れそうだ。いやそうじゃなく、この爪で切り裂かれれば一溜まりも無いだろう。
 

 他の大犬の咆哮や、『ビュン』何かが高速で飛んでいく音、壁や床を容赦なく破壊する音に血肉が飛び散る嫌な音。さっきから鬩ぎ合っているビッグな大犬のビッグな顔に遮られよく見えないが、他の大犬が俺に襲い掛かって来ないのは女の子が魔法で倒してくれているからなのだろう。
 

 唸り声を上げながら、さっきの大犬と同じく体重を掛け俺を押しつぶそうとしてくるが、同じ手は食わない。ふっと力を抜き、押しつぶされた思わせ懐に入り込み、腹部を切り裂く。名付けて『秘技・消える斬撃』である、今名付けた。さっきとは違い、膝を折っていなかったからこそ出来た技だ。
 

 切り裂いた腹から腸や血液が溢れ出てくる前にその場から退き、崩れ落ちる頃には女の子が相手をしている多数の大犬の一匹を側面から斬り付けていた。自分でも驚くほど鮮やかな行動だ。大した技術の無い俺も、魅せる相手がいると能力が向上するようだ。チラッと女の子を一瞥するが、詠唱と発射する魔法の軌道修正で俺の事など全く気にしてなかった。ほんの少し悲しかった。
 

 大犬達はもう俺など死んだものだと思っていたのか、俺に関して無頓着だったので、もう二匹背後と側面から斬りつけ苦も無く倒す事が出来た。そこまでやられてようやく俺の存在に気が付き、二匹がこちらに向かってくる。
 

 もちろん、俺に同時に数匹の大犬を相手にする実力など能力が向上した今でも絶無である。
 

「一匹ずつ! 一匹ずつかかってこい!! 二対一は騎士道に反するんだぞ!?」
 

 モンスター相手に錯乱気味に叫ぶ。傍から見ればただの馬鹿である。
 

 直進してきた大犬達は途中で左右に別れ、俺を挟むように襲ってくる。正面から二匹を相手にするのも無理なのだ、挟み撃ちにされようと変わりない。いや、逆に・・・・・・挟み撃ちの方が都合がいいかもしれない。
 

 二匹の距離がある程度開いた後、一匹に向かって突っ走る。ほんの数秒かもしれないが、一対一で戦う事が出来る。その間にどうにか倒すのだ。そうするしかコイツらに勝つことは出来ない。
 

 両者が全速で距離を詰めるだけあり、すぐに正面の大犬の攻撃圏内に入ったらしく、牙を剥き腕を振り上げ吠えながら飛躍してくる。大犬の腕から爪の先までの長さと俺の腕から剣の先までの長さは、大犬の方が一回り長く、力も向こうの方が断然上だ。しかもこっちには時間が無い。一撃で決めなければならないのに、このハンデは辛いものがある。
 

 迫ってくる爪を気にすることなく突っ込む。立ち止まろうと進もうと死ぬのなら一か八かの賭けに出ようじゃないか。
 

 高く跳んでくる大犬、空中では方向転換も出来ず直線的な攻撃しか出来ないはずだ。今までにも何度か受けた跳躍攻撃、距離と速度と角度からある程度の落下地点と攻撃範囲は読めた。学習能力だけなら俺だって中級には負けない。
 

 落下地点の後ろに回るのは間に合わず、下に入り込むのも危険すぎる。となると、落下と同時に振り下げる爪をなんとか回避し、一撃で息の根を止める。これしかない。
 

 どんどん近づく距離、ついに途轍もない重量を課され振り下げられたその腕から伸びる大きく鋭利な爪が見事な残像を残しながら俺を襲う。大きく動くと体勢も崩れ、攻撃時に力が入らないので右に軽く飛び跳ねるだけにする。それだけで完全にかわせるものだと思っていたのだが、左腕と左頬に薄く切られる。威力だけでなくスピードも半端ではなかった、攻撃範囲を予測出来なかったら確実に真っ二つだっただろう。
 

 右に回避した結果、俺は大犬の首がよく見える位置にしゃがみこんでいる形になった。
 

「ハアッ!」
 

 膝をバネに渾身の力で首を目掛けて突き上げる。今から大犬が腕を振り上げようと間に合わない。
 

 −−−勝利。
 

 その二文字が頭に浮かんだ瞬間、大犬は大きく首を曲げ、剣を噛み止めた。
 

「んな!?」
 

 驚きながらも剣を引き抜こうとするが、がっちりと噛まれ固定されている。大犬を蹴っ飛ばしてでも引き抜こうとするが、微弱たりとも動かない。形勢逆転だ。
 

「放せ! 放せって! チクショウ、毒でも塗っとくんだった」
 

 剣を引き離そうと必死に蹴っ飛ばすが、毛が厚く全く通用しない。剣を折ろうと顎に力を込める大犬だが、名剣だけあり、そう簡単に砕けはしない。
 

 背後から近づいてくる体型に見合わない軽い足音、振り向くのが怖いほど近い距離。さっき俺を裏切ろうとした愛剣を見捨てて逃げようかとも思ったが、そうすると剣を咥えているほうの大犬も追ってくるだろうと思いとどまる。が、このまま一匹の大犬を押さえ込めたとしても、もう一匹をどうにかしないと結局は死を待つのみだ。
 

 背後で急激に膨れ上がった殺気、反射的に身体が剣を放し転がろうとするが間に合わないだろう。無駄だとわかっていても研ぎ澄まされた爪に対して、発達しているとは言い難い背筋で抵抗しようと硬く目を瞑り身体を強張らせる。身体が真っ二つになるか、はたまた中途半端に傷を負わされ激痛を味わう事になるかの二択ならば、俺は真っ二つの方がいい。
 

 ベチャッと音をたて背中に衝撃が走る。思ったより小さな衝撃で、痛くは無かった。手に持っていた大犬に噛みつかれ重みを増した剣も随分軽くなった。真っ二つに裂かれ痛みも無しに殺されたのかとそっと目を開くと、目前で愛剣を固定していたはずの大犬の下半身が巨大な氷で潰されており、振り向くと後ろにいたはずの大犬も脊髄に沿って真っ二つにされ、無惨に横たわっていた。
 

 その後ろに杖を構えたままの女の子がいる。
 

 唐突に猛火の音しか聞こえなくなった教会。辺りを見渡すと一面血の海だった。先ほどの二匹と同じく殆どの大犬達は潰され、裂かれ、子供が見たら泣き出しそうな殺されかたをしている。強力な魔法でのダメージは大抵こういうものなので気にするほどでもないのだが、これを一人の少女がやったと言う事には対しては驚愕せざるを得ない。
 

 一歩踏み出すごとにペチャペチャと音を立て血が飛び散る。厭わしさを感じながらも女の子の方に向かう。俺の到着を待たずに、杖を下ろし祭壇に向き直った女の子は何かを考えているようだった。共通の敵を目前に仲間意識が急上昇し、何ら態度が変わる事を期待していたのだが、全く変化が無い。
 

「助かったよ。ありがとう」
 

 ついに炎が教会を二分し、俺達の居る位置と出入り口を分断した中、俺は女の子の真後ろに着くと同時に礼だけは言っておいた。反応は無い。
 

 一旦は片付いた大犬だが、外でまだモンスターが雄叫びをあげているのが聞こえる。予想はしていたが、アレで群れ全部というわけではないようだ。
 

 さっきの鳥型のモンスター、今の犬型のモンスター、多種類のモンスターが混じった群れはかなりの大きさである。少なくても数十匹、多ければ数百匹の群れにもなる。女の子と俺が倒した数だけでも三十を超え、ソレを遥かに凌ぐ雄叫びと奇声が外で飛び交っている。いずれその全部がこの教会に踏み入ってくるだろう。いや、その前に火災での教会崩壊の方が先か。
 

 諦め半分で燃え盛る炎に向き直り溜め息を吐く。
 

 でも、不思議と平然としていられた。元々旅に出た時から死は覚悟していたし、何度も死に直面しているので慣れたのかもしれない。それに、カッコイイじゃないか、女の子を守って死ねるなんて。まぁ俺が守ってもらってばかりだったけど、女の子の窮地に駆けつけるなんて、やはりカッコイイ。
 

 そう自分に言い聞かせ、更に溜め息を吐いた時、背後で轟音と共に砂埃が立ち込めた。
 

「ゴホゴホ・・・・・・ッ! なんだ!?」
 

 まだ大犬が残っていたのかと振り向き剣を構えるが、砂埃の中に見える影は女の子の物だけだった。思いのほか早く砂埃が晴れたのも当然、さっきまで祭壇があったはずの場所に何も、壁すらも無くなり、その先に深い森が見えている。女の子はそこに最初から何も無かったかのように大穴を潜り森の中に消えようとする。多くの人間が信仰し、壁に傷一つ付けただけでも信者にボッコボコにされる教会の祭壇を跡形も無く消し去った女の子の背中を、俺はポカンと口を開け見つめていた。
 

 やってくれる。出口が無ければ作れば良いと言うわけか。でも、考え方とやり方が強引すぎだ、よほど暴力的な性格なんだろう。傍に居ればいずれ俺も殺されるんじゃないか? ついて行くかどうか、悩むところだ。
 

「グギャアアア!」
 

 炎の向こうから聞こえてくるモンスターの奇声。俺は走って女の子の後を追いかけた。

 

 

 

 

 この森は予想以上に大きかった。


 多分もう何時間も歩いているだろうが、全く森を抜ける気配が無い。
 

 少し前までは、遥か後方の真っ赤な空と真っ黒い煙が俺達の行くべき方向を教えてくれていたため迷う心配はなかったのだが、今じゃそれも見えない。
 

 町全体が燃え尽きるほどの時間歩き続けたのか、燃える町が見えなくなるほど遠くまで来たのか、どちらにせよこの森の壮大な広さに嫌気が差す。
 

 平地ならこのくらいの時間歩き通せるが、ここは何年も人が足を踏み入れていないような荒れた森で、大きな石が転がっていたり、木が倒れ道を塞いでいたり、深い穴もあった。それらを避けたり、ぶつかったり、イライラして蹴っ飛ばし爪先に激痛を感じたりで、既に体力の限界だ。
 

 変わらず目前で揺れる綺麗な繊細な髪の持ち主も同じような目に遭っているのだが、ペースを変える事無く歩き続けている。
 

 でも、俺の目は誤魔化せない、何の苦も感じていないように振舞っているんだろうが、実際はかなり疲労が激しいはずだ。俺にはわかる。
 

 これはきっと、ずっと女の子の後姿だけを見ていた俺にだけわかるだろう変化だ。簡潔に述べると、数時間前と女の子の髪の揺れ具合が違う。数時間前までは髪が緩やかに、少しだけ、毛先だけが揺れているような、身体の軸がしっかりとした歩きだったのに対し、今は緩やかには変わりないが、さっきより激しく髪が揺れている。疲労で身体の軸をしっかり保てなくなった証拠だ。
 

 「少し休まない?」
 

 俺が疲れ果てたのと、ほんの少しだけ女の子を気遣った事からかけた言葉を、女の子は無視して歩き続ける。
 

 この無駄に頑固な女の子を言い聞かせるのは無理だろうと諦め、何時間掛かるかわからないが森を抜けるまで休息無しで歩き続けるんだろうなと苦悶し、ならば脚の痛みを紛らわせるために何かしようと、その何かを何にしようかと熟考し始めたその時、俺の気遣いで気が抜けたのか、脚が限界を突破したのか、女の子はあからさまにふらふらとしながら近くの大岩に寄りかかった。
 

 その、実に年頃の女の子らしい可愛いい動きと、これまでこの女の子が取って来た行動言動との激しいギャップに、思わず吹き出してしまう。それを隠すために咳払いをすぐにしたが、二人っきりの静寂な森に俺の声はよく響いたらしく意味はなく、女の子に無表情に睨まれた。
 

 「いや、疲れてるならそういえばいいのに」
 

 顔の前で両手を振りながら、笑ってしまった理由を弁解するが、女の子は睨むだけ睨むと弁解には興味無さそうにそっぽを向き、その場に座り込む。俺も脚を休めるため、木を背に座り込むが、元々寒いのに加え汗で濡れた服が冷え切っており、更に寒さを増し俺の身体を凍りつかせる。歩いている時は忘れられていたこの寒さ、もしかするとずっと動いていた方がよかったのかもしれない。
 

 女の子も寒いのか、袋の中からこの女の子から見ると少し大きめな漆黒のローブを取り出すと羽織った。安っぽい布のローブではあったが、ないより何倍もマシなのだろう。
 

 俺も何か無いかと袋の中を漁る。チョコパン、ミントパン、メープルパン、バターパン、ブドウパン。パンしか出てこない。なおも探し続けると、袋の底から親指の大きさくらいまで磨り減った火打ち石と、ほんの少し残っている点火用の油が出てきた。
 

 これで焚き火を起こす事も出来るが、すぐにまた前進を再開するだろうし、焚き火は低級モンスター除けには幸いなのだが、中級以上のモンスターからすると獲物がいると言う合図であり、逆に集まってきてしまう。すぐそこに中級モンスターが迫ってきていると言うのに焚き火をするほど俺は愚かではない。
 

 でも、普段ならここで、中級モンスター以上と言う出会ってしまったらほぼ確実に死するだろう恐怖にも構わずに、焚き火をしていただろう。それは俺だけでなく全世界の庶民旅人問わず皆そうするはずだ。
 

 中級モンスター以上を呼び寄せてしまうかもしれない焚き火を、皆が然も安全な物だと言う顔をするのには、当然それなりの理由がある。実は中級以上のモンスターやモンスターの群れなどが出没した、そのモンスターがこれから移動するだろう位置を、無料ではないが予め町で確かめる事が出来るのだ。それだけでなく、突然何の情報も無い場所に現れるモンスターの位置でさえ確認出来る。
 

 真意は確かではないが、もっとも有力で誰もが予想するだろう話では、危険を承知でモンスターを監視しているというものだが、一日置きにモンスターの正確な位置を報告する手段ならいくつもあるとして、その後の行動まで予測する手段は聞いたことが無い。だが、その予告が外れた事は一度たりとも無い。
 

 そんな不思議で不気味な技術を用いて、モンスターによる人災をこの上なく下げ、世界規模にまで広がった組織の事を、そう、俺も酷くお世話になった『ラーガリア教会』と言う。俺をぼったくった、あの『教会』の事だ。
 

 そして、そのモンスターの位置を把握する力を『神の千里眼』だと言い張り、多くの信者に大量の寄付、そして壮大な権力を手に入れた。この教会が設立された日や経緯などを知っているものは少ないが、今やほぼ全ての町に『教会』が設けられ、一般市民だけでなく冒険者の安全確保、モンスターハントにも大いに役立っている。
 

 もちろん俺は『神の力』なんて信じていないし、胡散臭いとも思うが便利な事にはかわりなく、俺も町に立ち寄る際にはいつも利用している。
 

 とはいえ、単に面倒臭いだけなのか、『神の力』の限界なのか、それとも意図的にそうしているのか、世界中のモンスターの位置を把握している教会は少なく、大抵はその町から近い一部地域のモンスターの位置しか明記していないため、所々にある教会に立ち寄り、何度も寄付をしてモンスターの位置を確認しなければならないのだ。一回の寄付は大した事ないのだが、それが何度も続けばそれなりの金額になる。
 

 安全な旅を続けていたければ必ず立ち寄ることになる教会、いつの間にか寄付を食費と同様に生活に必要な最低支出として意識してしまっており、この二年で教会に寄付した金額は質素な食事なら五年分にも及ぶだろう。そんな多額の寄付をしているのは当然俺だけではなく、全世界の人間が利用しているため、教会の儲けの一日分を丸々貰えれば孫の孫の代まで遊んで暮らせる金額になる。
 

 それでも俺の寄付は安い方と言える、常に荷馬車など移動速度の速い乗り物で町を転々としている行商人は、俺の数倍の距離を移動する分、当然俺の数倍の寄付をしているだろうし、場合によっては盗賊除けに傭兵まで雇わなくてはならず、俺の単純な脳で考えるに、儲けるのはとても難しそうだ。更に生粋の信者と来たら、惜しげもなく家宝も財産も寄付し、必要とあらば娘さえ教会へ無理矢理献身させてしまう。全く持って教会のトップが羨ましい。
 

 寒さを忘れようと考え事に没頭−−−俗に言う現実逃避をしていると、不意にその視線に気づいた。
 

 「・・・・・・? 何か用?」
 

 先ほどとは打って変わり、フードの中からこちらを覗いてくる冷徹さの欠片も無い純粋な興味の目。相変わらず感情は読み取れないが、敵意はもう完全に感じられない。
 

 目を合わせるとすぐにまた何の興味も無さそうにそっぽを向き森の闇を見始める。俺もしつこく追及などはせずに、今度は俺がフードで隠れた女の子の横顔をじっと見つめる。
 

 確かに安物のコートだが、使い込んだ形跡は無く、もしかしたらさっきの町で盗んできた物なんじゃないかと疑ってしまう。何でもかんでも疑ってしまうのは俺の悪い癖だが、実際これで幾度かの窮地を乗り切ってきたため、直すに直せない。
 

 「この森広いよな、これだけ歩いても出られないなんて」
 

 次々に湧き起こる不安と疑問から適当に切り出した話題だが、これはこれで聞きたいことだったので丁度いい。少しでも女の子の声を聞いて、こんな気味の悪い森で一人じゃないと安心したい。
 

 「迷った」
 

 無表情なんだか真顔なんだかわからないが、目を見て言われたセリフに冗談の色は全く見えなかった。
 

 聞かなきゃよかった。

 

 

 

 

 「おっきなおっきなおそらに浮かぶ〜」


 木に背を預け、空に向かい、寒さと喉の渇きから音調が外れ、所々震えている声で高らかに歌う。
 

 「き〜らき〜らおほしさま〜」
 

 この歌は子供の頃、カズラさんが寝る前に良く歌ってくれたものだ。でも、あの人はちょっとばかしバリトンボイス気味なため、とてもじゃないが綺麗な歌声とは言えなかった。だが、少なくとも今の俺よりは何倍も良かっただろう。
 

 「まっくらまっくらおそらを照らす〜」
 

 「五月蝿い」
 

 まだ二番の歌い始めだと言うのに、女の子から鋭い批評が飛んだ。暇を潰しながら身体を温めるのにそれなりの効果を発揮し、何より不安を少しでも薄れさせれくれる作用があり、今の俺にとってそれ以上の薬は無かったのだが・・・・・・考えてみると、自らモンスターを呼び寄せる行為をしていたのか。
 

 まぁ、女の子はそんな深いことまで考えず、ただ単に耳障りだったから止めたのだろうが。
 

 「で、何かこの森から出る考えがあるのか?」
 

 ほんの少し希望を期待したのだが、女の子は何を見ているのか、森の闇をただただ見据えるだけで俺の話など聞いちゃ居なかった。全く何の対策もなく会話するのが気まずいがため、わざと聞き流したのかもしれない。
 

 「ぴ〜かぴ〜かおつきほぶぁ」
 

 「五月蝿い」
 

 拳ほどの大きさの石を投げられた。
 

 同時に、夜風と同じくらい冷たい視線を一瞬向けられたが、すぐにまた闇へと視線を戻す。一体何を見ているのかを気になる所だが、今は石をぶつけられた額から流れてくる血を袖で拭い取りながら、何かこの熱い傷口を冷やすものを探すので手一杯だ。
 

 だが、当然こんな所に冷やす物なんてありはせず、使えそうなものといったら夜風に曝され続け冷え切石くらいだ。この際冷たければ石でもいい、だが傷口を冷やすとなるとそれ相応の大きさと滑らかさが必要になり、この辺にある石は全部大きすぎたり小さすぎたりしたものばかりで、たまに丁度良い石が目に入っても、それはゴツゴツしていた。そして一番丁度良い大きさと滑らかさを持った石は、俺の額を傷つけ、付着した血液を勲章とでも言いたげに天に見せ付けている憎ったらしい石くらいだ。
 

 当然、こんなヤツに俺の身をゆだねる訳も無く、立ち上がると同時に蹴っ飛ばしてやった。思いのほか遠くに飛んだ石は、女の子が見ていた闇の中へと溶け行く。
 

 「キュウ!?」
 

 「へ?」
 

 闇の中で鳴き声がした。それはとても高い声で、幼少期の女性よりも高い声で、人間から発せられたものとは到底思えない。
 

 女の子はあの闇の中に人間ではない『何か』がいることに気が付いていたんだろう。その『何か』がモンスターの可能性は極めて高く、さっきのモンスター達が追いかけてきて不意打ちを狙っていたのかもしれない。俺がやった行為はモンスターとの戦闘を早める行為にあたり、でも元々戦闘は回避し辛い事で、小さいダメージであろうと先制攻撃を仕掛けた俺は褒められるべきなのではないかだろうか?
 

 やがて闇の中でガサガサと草が揺れる音がし始めた、『何か』がこちらに向かってきている。女の子は立ち上がり杖を構え、俺も剣に手を掛ける。
 

 「キュゥゥ」
 

 「・・・・・・ん?」
 

 闇の中から姿を見せたそれは、闇に溶けいるような漆黒の小さな塊だった。四足で歩行してくるそいつは、背中に身体と同じくらい大きな翼を二つ持っており、頭には小さな角までついている。何故だか怒っているようだったが、その小動物の目に浮かぶ涙に増大させられた愛らしさの前に恐怖など抱けるはずがなかった。
 

 「可愛いなぁ、ほら、こっちおいで」
 

 剣を鞘に収めを、しゃがみこんで小動物に手を伸ばす。
 

 「なんて動物かな」
 

 特別動物が好きというわけではないが、人並み以上には愛玩する心はあると自負している。旅に出る前に住んでいた所には犬三匹に猫五匹、よくわからないムカつく鳥一匹を飼っており、それ全てを飼育させられていたとなれば、それなりに扱いにも慣れるし愛着も湧く。
 

 その頃の経験が何かしら動物に好かれるオーラを出したのか、少しずつだがその動物が近づいてくる。手元まで近づいてきたそいつのちょっとキツイ目付きも中々可愛い物だ。
 

 「ほらほら、もっとこっちにおいで」
 

 微笑みながら更に手を伸ばす、小動物もゆっくりとだが近寄って来てくれている。そして、もうあと一歩で俺の手に届くところまで来た小動物は唐突に大きな口を開けた。
 

 「ガブ」
 

 「ガ・・・・・・ブャアアア!?」
 

 その、翼と角に負けないくらい立派な牙で手首までガッチリと噛み付かれた。歯牙が突き刺さった手首が熱い、この熱さから察するにかなりの量の血が出ているんじゃないだろうか。
 

 「痛い痛い痛い! 放せ! 放せって痛いって!」
 

 小動物ごと腕を振り回すが、手から小動物が放れて行く距離より歯牙が手に食い込んでくるほうが二倍ほど早かった。
 

 「くっそ、この・・・・・・!」
 

 目に浮かぶ涙の所為で世界が揺らぐ中、出切れば使いたくなかった最終手段を使う事にした。
 

 腕を振り回しながら近くの木に寄り、大きく小動物ごと手を振り上げ、身体全体で腕を木に向かって振り下ろす。
 

 小動物のワンワンだかニャニャーだかキューキューだか、泣き喚く姿を想像すると胸が痛んだが、このままでは手が食い千切られてしまうかもしれず、仕方の無い事だと自分に言い聞かせる。だが、小動物は手が木にぶつかる瞬間に故意か偶然か、するりと手から放れていった。
 

 「へ?」
 

 手を衝撃から守るためのクッションが無くなった事へ情けない声を出した瞬間、ボキッと言う何かが折れるような音がし、手から全身へと激痛が駆け巡る。
 

 「〜〜〜!!」
 

 もう悲鳴にもならない叫びを上げ、少しでも痛みを忘れようと走り回る。
 

 「おおお折れた! 絶対折れたああああ!」
 

 涙をポロポロこぼしながら、叫喚し走り回り、多少痛みが和らいだところですぐさま女の子の後ろに逃げるように隠れた。
 

 「あいつ! あいつは危険だ! きっと、さっきの奴等の刺客だぞ!」
 

 真っ赤に腫れ上がった手を華麗な着地で傷一つ負っていない小動物の皮を被った凶悪モンスターに向けながら女の子に警告する。
 

 手首にくっきりと歯形が残っており、所々皮膚に穴が開き、血が滲んでいる。小さな小さな傷ではあるが、俺の心の傷は大きく、動物恐怖症という形で一生胸に刻まれてしまうだろう。
 

 そんな不憫な俺に哀れみの目を向けるわけでもなく、女の子はそっと凶暴なそのモンスターに近寄っていく。
 

 きっと俺の仇をとってくれるんだ、大きな氷の塊でグシャリと・・・・・・いやでも、あんな子供を殺すのか? 流石に可哀想じゃないか? せめてムチで叩くくらいで、いやいや、俺としては別にビンタ一発でもいいんだ、モンスターとは言え実力の差も見極められない子供を殺すほど俺は鬼ではない。
 

 「いや、でも殺す事ないと思うぞ、うん、よく見たらただの動物じゃないか、驚いて噛み付いてしまっただけだろうし」
 

 「キュウ・・・・・・」
 

 野生の勘とでも言うのか、小動物は女の子を睨みながら身構え、震えながら一歩一歩後退る。俺のフォローも虚しく、女の子はゆっくりと一定の歩調で小動物に近寄っていく。
 

 コレはもう、可哀想だが、小動物の命はあと数分だろうな。俺にはわかる、この異様な雰囲気を出している女の子は怒っている。短い付き合いではあるが、共に生きるか死ぬかの状況を切り抜けた仲間である俺を傷つけた小動物が許せないのだ。こうなってしまうと俺にはもうどうしようもない、さようなら小動物、せめて骨でも残れば墓くらい俺が食費を削ってでも立派なのを立ててやる。当然、削れた食費分はお前の肉で・・・・・・いや不謹慎だった。
 

 「キュ・・・・・・キュウ!」
 

 弱気だった小動物もこのままじゃただ殺されるだけだと悟ったのか、少しだけ強気に戻った。だが、たとえいくら高圧的になろうと実力に差がありすぎる。先ほど俺に噛み付いたのが全力だろうが無かろうが、せめて食いちぎるぐらいの力と度胸をみせなければ勝ち目どころか触れる事も叶わないかもしれない。
 

 「キュウ! キュウ!」
 

 「・・・・・・」
 

 小動物は大きな瞳に涙を浮かべ震えながら必死に威嚇をしているが、女の子はお構い無しに近寄り、ゆっくりと手を伸ばした。
 

 すっかり怯えきった小動物は逃げようにも脚が動かないようで、伸びてくる手を避けることも噛み付くことも出来ないようだ。
 

 手の伸びた先は小動物の頭、何故かマッチョがリンゴを片手で潰す姿を思い出した。潰れたリンゴが指の間からはみ出て、大量の果汁を手を濡らす。そんな姿を小動物に重ねてしまい、小動物の頭があーなってこーなってと想像していると吐き気と目眩が襲ってきた。
 

 直上まで迫った手に慄き、硬く目を瞑る小動物にトンッと置かれた手、ビクンと震えるその頭をマッチョ身体負けの怪力でブシャッとグシャッと、まるでパンが如くペシャンコに・・・・・・なるのだと想像していたのだが、女の子はただ軽く手を動かし、優しくそっと小動物の頭を撫でた。
 

 何か裏があるんじゃないかと疑い、底知れない恐怖に震え続ける小動物だが、やがて何を感じ取ったのかそっと目を開きジッと女の子の目を見た後、完全に恐れの消えた表情で『キュウ』と鳴きながら女の子の足に顔を擦り付けた。そんな小動物を女の子は撫で続け、仕舞いには小動物を抱きかかえた。
 

 背部からなので双方の表情はよく見えないが、キュウキュウと嬉しそうに鳴く小動物はどう考えても好意的だし、今までこんな温情な態度を一度も見せた事の無い女の子が小動物を嫌悪しているわけが無い。
 

 なんだそれは、コイツら両方とも俺の時とは態度がまるで違うじゃないか。小動物は俺の伸ばした手を何の情緒も無しに食らいつき、女の子なんて俺のことを透明人間扱いだった。別に小動物見たいに頭を撫でたり抱きついてくれとは言わないさ、ただ人間扱いしてくれればそれでよかったんだ。これじゃ何だか小動物に存在で負けている気がするじゃないか、面白くない。
 

 「なんだ、大人しいじゃないか。いきなり近づいたから驚いたのかな」
 

 思考を表情に出すことなく、あくまで友好的な態度で一人と一匹に近づいていく。女の子に抱えられ機嫌の良さそうな小動物のツルツルで冷たそうな黒い皮膚に触れようとさっきとは逆の手を手を伸ばす。
 

 「いやあ、近くで見ると更にかわい―――」
 

 「ガブ」
 

 「ガ・・・・・・ブャアアアア!?」
 

 俺の手が目前に迫ると上機嫌だった小動物がいきなり血相を変え、又もガッツリと手首まで噛み付いた。あまりの速さに何の反応もする事が出来なかった自分が情けないが、それ以上に何故か俺だけ小動物に敵視されていることが悲しくて仕方が無い。
 

 今度は女の子に抱かれているため、腕を振り回し無理矢理引っぺがすことが出来ない。とはいえ、俺がこの激痛に耐えるられるほどの修行は積んでいるわけがなく、女の子に多少負担は掛かってしまうだろうが思いっきり腕を引く。だが、小動物はさっきと打って変わって引いた手をすぐに放し、俺は勢い余ってそのまま後ろに倒れこむ。
 

 「いッたたた・・・・・・」
 

 おうとつの激しい堅い地面に打ち付けられた腰をさすり、両手首についた歯形を見つめる。クッキリと残っている歯形は何かの刺青やまじない、もしくは呪いにも見える。
 

 抱きかかえられたまま『キュウ!』と威嚇をしてくる小動物を怖いとは思わないが、もう可愛いとも思わない。男を食糧としか見ず、女にだけ媚を売る生物の何処が可愛いんだ、ただの発情期の犬じゃないか。
 

 女の子に小動物の危険性をじっくり指導してやろうと立ち上がるが、先手を打ったのか小動物が女の子に何か話しかけていた。キュウキュウとしか鳴かない小動物の言葉を分かるとは思えないが、女の子の服を咥え、自分が出てきた森の方向に引っ張ることから何をしたいのかはわかる、女の子を森の奥に連れて行きたいのだ。
 

 無駄だな、あの冷静沈着で利口な女の子がこんな奇怪で凶暴な獣に易々ついていく訳が無い。言うなれば、全身黒服にサングラスまでした怪しさ全開の中年に『欲しいもの買ってあげるからついておいで』と言われついて行くようなものである。そんな、怪しいというより、その場に居るだけで騎士団に捕まりそうな奴について行くなんてまずありえない。
 

 そう信じていた。
 

 「キュウ、キュウ! キュウキュウキュウ!」
 

 「・・・・・・」
 

 熱心に女の子を森の奥に連れて行こうとする小動物を、女の子はしばらく相手の心を探るように見つめた後、ゆっくりと森の中に歩き出した。
 

 「え!? ちょっとまった・・・・・・! 罠かもしれないんだぞ!?」
 

 「・・・・・・」
 

 特に周りを警戒している様子の無い女の子は、俺の言葉を無視し歩き続ける。心配して言っているというのに・・・・・・。
 

 ついていくのは確かに危険だが、俺一人になるのも相当に危険なのだ。もしもモンスターと遭遇したら俺一人で対処できる数には限りがあり、モンスターの群れが追いついてきたり

なんてしたら対処できるわけも無い。ならばまだ罠かもしれないというだけで、罠だと決まったわけではない小動物の先導に続く方が生存率は高い。いざとなったらこの女の子も居るし、何とかなるだろう。
 

 ガサゴソと暗がりの草叢に飲み込まれていく女の子の背中に続く、長く険しい道のりを予想していたのだが、数歩あるくだけで草叢を抜けた。

   

 「?」

 そこにあったものは又も真っ黒い塊、今度はこの小動物と比べ物にならないほど巨大なモノだ。この距離からだと大きなゴツゴツとした岩のようにも見えるが、それは距離を詰めるごとにだんだんとその輪郭を露にしてきた。
 

 「・・・・・・! コイツって!?」
 

 この漆黒の塊にも頭に立派な角が、少し開いている口には立派な牙が、背中に立派な翼が生えていた。女の子と俺を一緒に丸呑み、いや、大犬をも丸呑みに出来る大きさ。木々が群がる一角に隠れるように身を伏せているこの漆黒の塊―――『角』『牙』『翼』にこの体格、これは間違い無く、
 

 「ド、ドラ・・・・・・ゴン・・・・・・ッだぁああああ!?」
 

 女の子の腕に抱えられている黒く小さい塊、コイツはやっぱり凶悪なモンスターだった。
 

 思わず大声をあげ草叢の中に飛び込み、身体を完全に隠しそっと顔だけ出して覗き見る。どうやら俺が見ていたものは、腹をこちらに向け横たわっているドラゴンらしい。
 

 背中を向けて逃げ出そうと思ったが、女の子を置いていくわけにもいかない。何せ相手はドラゴンだ、アレだけの実力を見せ付けられても、この女の子一人で対処できると思えなかった。
 

 ドラゴン・・・・・・色々と種類はあるものの、その殆どが高級モンスターの中でも更に上位に立っている。理由は単純明快・・・・・・強く、賢い事からだ。実力はその気になれば一匹で一国を滅ぼせるとも聞くが、真意は定かではない。温厚なわけではないが、よっぽどの理由が無ければドラゴンは自分の縄張りから出ないからだ。
 

 知能も他のモンスターと比ではなく、人間より高いという話も聞いた事がある。人間の言葉を理解するドラゴンを見たと言う自伝は数多く、偉い偉い生物学者さんもそれは真実だと語っている。その、強大な力と研ぎ澄まされた五感と高い知能、そして高い知能から生まれる人間に似た感情という概念から引き起こされた一つの実話がある。
 

 昔一人のモンスターハンターが賞金欲しさに親が居ないうちにドラゴンの子供を殺した、親は子供の亡骸を見つけたときにはもうモンスターハンターは姿を消していた。親は激怒し、自分の子供の匂いのする人間を探すため付近の村や町に攻め入った。いくつ村や町を壊滅させてもそのハンターは見つからない。そこでドラゴンは自分の子供の亡骸をわざと人々に見せながら村を壊していった。人々は何故ドラゴンが暴れているのか気づき、ドラゴンの子供を殺したハンターを捜し当てた。そしてハンターを縛り上げ、ドラゴンに差し出した。ハンターは見るも無惨な殺され方をしたそうだが、ドラゴンは自分の縄張りに帰っていった。
 

 この事があってから、一般のモンスターハンターは一切ドラゴンへの接触を禁止された。ドラゴン狩りが許されるのは、ギルドに認められたモンスターハンター・・・・・・ドラゴンバスターとも呼ばれる者達が五人・・・・・・場合によっては十人以上で正式な手続きを終えて、更に最低一週間の戦闘再訓練を受け、ドラゴンについての筆記試験を受けなければならない。馬鹿げていると思ったが、この制度が適応されてからドラゴンによる大量無差別虐殺は一切無くなっている以上、その効果を認めざるおえない。
 

 ちなみにこの条約を破ったものはギルドの立ち入りを今後一切禁止され、更に十年は暗く冷たい牢屋の中である。昔話のようにドラゴンを怒らせでもしたら死刑確定だ。
 

 最強の生物としてこの世界に君臨してもおかしくないドラゴンに唯一欠点があるとするならば、それは群れない事だ。言葉を理解し、コミニュケーションが取れるにも関わらず大抵のドラゴンの一切群れない。群れないがため、一部地域を我が物にするだけで満足しているようで人間の地域にわざわざ攻めては来ない。だが、自分の縄張りから出ない事で、他のドラゴンと出会うことが無く生殖活動が行えず数を減らしているそうだ。長寿であるため本当に少しずつだが・・・・・・。
 

 そんなドラゴンが居る場所に俺達を誘い出したこのちっさい黒い塊が敵じゃないわけが無い。いや、この小さいのもドラゴンなんじゃないのか? そうだ、こいつもドラゴンだ、『角』『牙』『翼』とよく見れば特徴全てがついているじゃないか。何で気がつかなかったんだ。そういえば、遭遇した時だって腹が減っていたのか、いきなり指を食いちぎろうとしてきたんだった。
 

 「まずいって! はやく逃げないと!」
 

 立ち尽くす女の子に音量を抑えて叫ぶが、女の子は振り返りもしない。恐怖に足が震えている様でも無さそうだ、立ったまま気絶しているんじゃないだろうな。
 

 恐らく数十秒、鳥や風すらも静寂に手を貸し、ひんやりと静まり返った空気の中、いつまで経っても動き出さない女の子を抱きかかえて逃げようかと思ったその時、女の子はゆっくりと巨大なドラゴンに向かって歩きを始めた。
 

 「待った待った待った! そいつが何だかわかってるのか!?」
 

 必死に言葉だけで女の子を止めようとするが、女の子は歩みを止めない。ドラゴンに立ち向かうだけでも常軌を逸していると言える行動なのに、あろう事か女の子はドラゴンにそっと触れた。
 

 ああ、死んだな。これは死んだ。女の子だけでなく、きっと俺まで殺される。パクパクムシャムシャされるんだ。いや、もしかすると丸呑みされるのかもしれない。丸呑みされた場合、胃の中でしばらくは生存できるんだろうか。出来たなら、胃液で完全に溶かされるまでずっと身体が溶けていく痛みを味合わなくてはならないのか? ならいっそ噛み殺してくれたほうがいい。
 

 きっと俺の言葉はもう女の子には届かないだろう。今まで一度でも届いた事があるかどうかも不明だが、仕方なくビクビクしながら諦観する事を決めた。
 

 「・・・・・・」
 

 スリスリ。トントン。ペチペチ。
 

 このドラゴンは鈍いのか、女の子が身体を撫でようと軽く叩いてみようと平手でいざと言う時のビンタの練習をしようと起き上がる様子が無い。これなら逃げれるんじゃ無いかと希望が生まれた時、
 

 「・・・・・・死んでる」
 

 無感情に女の子は言った。
 

 死んでいる? ドラゴンが?
 

 先ほど説明したようにドラゴンは、そりゃもう途轍もなく強い。それが目の前に居るだけでも信じられないと言うのに、そのドラゴンの死体となれば尚更信じられない。いや、信じたくない。
 

 「ほ、ホントに死んでるんだろうな・・・・・・?」
 

 恐る恐る草叢から這い出て、俺もそっとドラゴンの身体に触れてみる。とても冷たく硬い皮膚、熱を持っていないのは生きていても死んでいても同じなのだろう。スベスベでありながらもボツボツとしたオウトツを持っている皮膚をいくら撫でようとドラゴンは目を覚まさなかった、本当に死んでいるようだ。
 

 「でも、何で・・・・・・?」
 

 寿命。そうであればいいのだが、その可能性は低い。短くとも数百年、長ければ数万年も生きると言われるドラゴンの死期に立ち会えるなんてまずありえない。こんな荒んだ森ならば、死後三日もすれば肉食動物やモンスターが集り、その肉を残らず食い尽くしているはずだからだ。たとえモンスターの生息していない森だとしても、三日もすればある程度腐敗しているはずだ。
 

 死因を確かめようと立ち上がりドラゴンの周りを歩いてみる。硬い皮膚の所々に多数の切り傷があり、そこからすっかり固まった血が見える。だが、これだけで致死量の血を流したとは考えられなかった。
 

 「あー、これか」
 

 ドラゴンの背後にまわった時、謎だった死因がわかった。やはり寿命などではなく、背中を大きく深く斬られていたのだ。
 

 傷口から滝のように垂れていただろう血液が背中を赤黒く染めており、それはまだ粘り気が残っていた。地面に出来ている血溜まりがまだ乾いていない事から、やはり死後数日立っているわけではなく、少し前に殺されたものだと推測できる。
 

 まずい。
 

 これはまずい状況だ。
 

 「なぁ、早く森を抜けないか? ココに居ても良いことなんて無いと思うぞ」
 

 女の子の元へと戻ると同時に声をかける。表情にも出ていたかもしれないが、俺は一刻も早くここから立ち去りたかった。
 

 「キュウ・・・・・・キュウ・・・・・・」
 

 答えたのは女の子では無く小動物―――チビドラゴンとでも呼ぼう―――チビドラゴンだった。
 

 悲しそうな、今にも泣きだしそうな鳴き声をあげるチビドラゴンをただ抱いて、女の子はドラゴンの亡骸を見つめていた。
 

 チビドラゴンが女の子の腕から飛び降りドラゴンの腹部まで行くと、小さな傷口をそっと舐めた。何の反応も無いドラゴンにチビドラゴンはまた悲しそうな鳴き声をあげ、そっと女の子に向き直る。
 

 何となくだがわかった。このドラゴンはチビドラゴンの親か兄弟なのだろう。恐らく、チビドラゴンはドラゴンが死んだ事に気が付いていない。女の子をここに連れてきたのは、ドラゴンを起こすのを手伝ってもらうためなのだろう。あるいは、死んでいるのに気が付いているが、女の子なら何とかできるんじゃないかと言う無茶な希望を抱いているのかもしれない。
 

 見ているこっちが居た堪れない光景。
 

 次の行動に困っているのか、それともチビドラゴンが何をしようとも興味が無いのか、女の子は動かない。
 

 ここは全て女の子に任せよう、俺が手出し口出しすると碌な事にならないのは、過去の出来事から目に見えている。
 

 「キュウ・・・・・・キュウ・・・・・・」
 

 女の子に向かって再度鳴くチビドラゴン。女の子はやはり動かない。この状態はいつまで続くのだろうと思った刹那、女の子がやっと動きを見せた。
 

 ゆっくり、ゆっくりと俺を見たのだ。その眼差しは俺に『何とかしろ』と訴えてかけている。そして、女の子がこっちに視線を向けた後、その視線を追う様にチビドラゴンも潤んだ瞳を俺に向けた。
 

 これはもう、最悪なパターンと言っていい。

 値引き交渉どころか喧嘩の仲裁すらうまくいった例の無い俺が、いきなり子供のドラゴンに対し生と死というものを説かないとならないというのか?
 

 無理だ、まず、無理だ。
 

 とはいえ、女の子から向けられる脅迫混じりの視線に逆らうなんてことが出来るわけも無い。仕方なく、失敗覚悟でチビドラゴンの説得を試みる事にした。
 

 「あのな、チビ、よく聞いてくれ。世の中は不思議なことに形あるものはいつか全て壊れてしまうんだよ。それは誰にも変える事は出来なくてな、当然この女の子にも無理だ。だからな、何というか、無理な物は無理でな、俺に出来ることといえば埋葬してやるくらいなんだよ。火葬は・・・・・・いや、こんな大きなドラゴンを燃やす事なんて出来ないか。土葬も難しいな、こんなに大きな穴を掘るのに何日掛かるか。水葬も・・・・・・海は遠いし運ぶ手段がない。あれ? 結局俺に出来ることって何も無い?」
 

 自分でも何を言っているか分からなくなる一人語りをキョトンと聞いているチビドラゴン。途中で話が逸れた事へ呆然としているわけでも無さそうである。
 

 「ちゃんと聞いてるか?」
 

 「キュウ?」
 

 俺の問いかけにチビドラゴンは小さく首をかしげた、どうやらコイツ、言葉がわからないらしい。言葉が通じない相手をどうやって説得しろというのか。
 

 これはチビドラゴンに説き伏せるより、女の子に許しを請う方が容易だろう。場合によっては女の子の怒りを買いカチンコチンに凍りつかされる可能性もあるわけだが、意味不明理解不能な言動でチビドラゴンを恐怖させてしまいフレイムブレスでもかまされ真っ黒けにされるのも大して変わらない。
 

 可愛い外見とは裏腹の凶暴な性格、女の子とチビドラゴンは似ているなと、どうでもいい事を考えながら女の子に向き直ろうとした時、ドラゴンの腹部付近の地面に見覚えのあるものを見つけた。
 

 「この石・・・・・・」
 

 拾い上げたそれは俺が先ほど蹴飛ばした石。その石は先ほどと違い全体が真っ赤に染まっており、今や俺の血がどの部分に付着していたかわからない。
 

 ああ、そうか、コレか。コレが原因でチビドラゴンは怒っていたのか。
 

 俺が闇に向かって蹴っ飛ばした石が偶然にもドラゴンに当たってしまったのだろう。あの強靭な皮膚だ、もし生きていたのなら本人は気付きもしなかったかもしれない。実際、この石が傷をつけた形跡は皆無なのだが、こんな状態でいきなり石をぶつけられたのだ、ドラゴンとチビドラゴンの関係はわからないが、親しい仲なのは確かで、チビドラゴンが俺に向かって怒るのも無理は無い。
 

 先ほども言ったが、石がぶつかったのは偶然だ、故意じゃない。とはいえ、俺が全く悪くない訳ではなく、ここは謝るのが筋だろう。
 

 「コレ、俺が蹴った石だよな? ・・・・・・ゴメン」
 

 チビドラゴンに向き直り素直に謝る。
 

 「でも、わざとじゃないんだ、信じてくれ」
 

 そっとチビドラゴンに向かって手を差し出す。
 

 「だから、な? 仲直りし―――」
 

 「ガブ」
 

 慣れた擬音、慣れない痛み。
 

 「ガ・・・・・・ブャアアアアアアッ!?」
 

 俺が差し出した手を険しい表情で容赦なく噛み付くチビドラゴン。
 

 さっき自分で言ったのを忘れていた、コイツは言葉を理解出来ないのだった。俺がいくら謝ろうと何と言っているのか分からないのでは意味が無い。
 

 せっかくチビドラゴンが俺を嫌う原因が分かり、仲直りとまでは行かなくとも和睦への糸口が見つかったと思ったのに。苦痛と悲しみに暮れながら腕を引くと、意外や意外にチビドラゴンは簡単に放してくれた。俺の誠意が少しでも通じたのかもしれない。
 

 唾液だらけの手を乾かそうと振りながら、女の子の元へと駆け戻る。
 

 「無理でした」
 

 ナハハとニヤけながら結果を報告するが、女の子の評価はやはり厳しく、その冷めた視線は『役立たず』『何をやっていたんだ』『もう消えろ』と、まさにそう言っているようだった。手厳しい。
 

 どんな処罰が待っているのだろうと無駄に想像力を働かせ冷や汗を流しながら引きつったニヤけ顔を続ける俺を置いて、女の子はゆっくりとチビドラゴンに向かって歩みだした。チビドラゴンは全く警戒の姿勢を見せず、逆に何かを期待しているような眼差しを女の子に向けている。
 

 「・・・・・・」
 

 女の子は、それを知ってか知らずか、そっとチビドラゴンを抱き上げる。そして、そのままドラゴンに背を向け歩き出した。
 

 「キュウ! キュウキュウ!」
 

 ドラゴンから遠ざかる女の子に抗議の声を挙げるチビドラゴン。だが、女の子はその声に全く耳を貸す様子はない。今までの経緯からあまり好きとは言えないチビドラゴンだが、不憫に思わないわけでもない。森を抜けるのならチビドラゴンまで連れて行く必要があるのだろうか?
 

 あるとすれば、それは今までの女の子の行動と大犯罪者と言う肩書きからは考えられない事なのだが、チビドラゴンのためだろう。
 

 親を失ったチビドラゴンが、この森で生き延びられる可能性は非常に低い。確かにドラゴンはとても強力な生物だが、幼年時の力は中級モンスター以下なのである。低級モンスターと一対一ならばまず負けないだろうが、三匹いれば苦戦、五匹もいれば負けてしまうかもしれない。自然の世界は弱肉強食、負ければ当然その場でムシャムシャパクパクだ。
 

 そして、自然死ではないドラゴンの死。それはドラゴンより強い何者かがこの辺りに居ると言う事である。たとえそれが人間だろうが―――その可能性は限りなく低いが―――なかろうが、このチビドラゴンにとって脅威である事に変わりない。それを理解し、女の子はチビドラゴンを連れて行こうとしているのかもしれない。
 

 でも、罪状は忘れたものの、大犯罪者である女の子がチビドラゴンを助ける理由があるのかどうか、どうもそこが納得いかない。人情が残ってる可能性・・・・・・? 美化しすぎだ、そんなものが残っているはずがない。もし残っていたのなら、俺にもう少し優しくしてくれたはずなのである。・・・・・・ああ、そうかわかったぞ、なるほど理解した。たとえ子供のドラゴンであろうとその身体のパーツ一つ一つが貴重な薬や武器の材料になる。つまり高く売れるわけだ。たぶん、女の子はこのチビドラゴンを売っぱらおうという目論見なのだ。子供だろうと容赦の無い冷血非道な趣、流石は大犯罪者である。
 

 一人で勝手に納得したところで、ついに女の子に抱えられたチビドラゴンが本格的に暴れだした事に気がつく。まだ短いが、鋭く尖った爪が細く白い腕を引っ掻き、絶大な攻撃力を我が身を持って証明している牙が女の子の肩に食い込んでいる。熟練のモンスターハンター(俺)だろうと喚きまわるほどの痛みなのだが、それでも女の子はチビドラゴンを放さない。
 

 俺が解説を続ける間にも、腕と同時に引き裂かれボロボロになってしまった黒いローブに鮮血が染み込み続ける。非常に痛々しい。
 

 「な、なぁ、ほっといてもいいんじゃないか?」
 

 女の子が横切る間際に引きつった声をかける、同時に表情も引きつっていただろう。
 

 「・・・・・・」
 

 聞きそびれるはずの無い言葉へ無言の返答が来る。
 

 覗き見た女の子の表情は、初めてこの女の子を見た人が『ちょっとだけキツイ顔つきをしている美少女』と思う程度だが、苦痛にゆがんでいる。やっぱり痛いようだ。
 

 「キュイ! キュウキュウキュウ!!」
 

 ドラゴンから大分離れたためか、拍車をかけるようにチビドラゴンが更に暴れだす。
 

 「・・・・・ッ!」
 

 傷口を更に抉られ、ついに痛みに耐え切れなくなったのか、女の子はチビドラゴンを放した。チビドラゴンはそのまま俺を横切りドラゴンの元へと駆け戻って行く。
 

 ちらりと女の子を見る、『止めろよ』とでも言いたげな目をしていた。ごめんな、どうせ分け前を貰えるわけでもないだろうし、俺は早く森を抜けたいんだ。
 

 「キュウ! キュウ!」
 

 チビドラゴンはドラゴンの前まで来ると、こちらに振り返り威嚇をしてくる。『どこかへ行け』と、そう聞こえた気がする。
 

 それでも女の子は、腕から指の先まで、ダラダラと真紅の液体を流しながらチビドラゴンへと向かって行く。
 

 「あーあ・・・・・・傷薬ならあるけど使う?」
 

 女の子が横切る間際に、白い腕を真っ赤に染め上げた液体が流れ出るグロテスクな傷口を又も引きつった顔で見ながら声をかけるが、女の子は首を小さく振った。
 

 酷い話ではあるが、今残っている傷薬はかなりの高級品で、三日分の食費を削ってでも『もしも』の時のために買って置いたものなのだ。教会の神父に隠し通すのも苦労した一品で、実は頷かなかった事に少しだけホッとしていた。
 

 「キュウ! キュウ!」
 

 女の子が一歩、又一歩とチビドラゴンに近寄るたび、チビドラゴンは女の子を威嚇する。だが、先ほどと同じく女の子は全く怯まない。そして、今度は何の意地か、チビドラゴンも近寄ってくる女の子に威嚇をやめることはない。
 

 例え、女の子に戦う意思が無くとも、このまま距離を詰めれば確実にチビドラゴンは攻撃を仕掛けてくるだろう。チビドラゴンの攻撃なんて高が知れているが、それでもこんな所で騒げば、モンスターが寄ってくるかもしれない。
 

 そこまで考え、慌てて女の子を止めようとしたその時―――
 

 「!?」
 

 森がざわめいた。

 

 一斉に鳥が羽ばたき、動物が身を隠し、低級モンスターが逃げて行く。そして俺も、生物的直感から危機感をこの身で感じていた。恐らくそれは、動きを止めた女の子も、急に怯えだしたチビドラゴンも感じているだろう。
 

 ―――逃げたい。女の子やチビドラゴンの存在を無視して、自分一人だけでも逃げたい。でも、きっとそれは叶わない。だって、小さくとも力強い足音がもうすぐそこまで来ているから。
 

 ゾクゾクと悪感が背筋に走り、自然と視線が森の奥へと向く。ポキパキと枝を折りながら森の闇からゆっくりと現れたそいつは、女の子の肩書きだけの外見とは違い、本当に悪魔のような顔をしていた。
 

 二本足で立って現れたそいつの体長は俺より一回り大きいくらい、指だか爪だかわからない手の先は鋭く尖っており、手を洗う習慣が無いのか乾いた血がべっとりと張り付いていた。背中にはコウモリの翼があり、裂けた口からは牙が覗き、頭には小さな角が二本生えている。骨に皮が張り付いているだけのような細身と言うには細すぎる身体、その真っ黒い全身に、当然服など着ていない典型的な悪魔にも似たそいつは、紛れも無いモンスターだ。
 

 確かこいつは『ブラックガーゴイル』という高級モンスター。一日に二種類の高級モンスターと出会う日が来るなんて思わなかった。運が良いのか悪いのかと問われれば、とんでもなく悪い。二回連続でタンスの角に足の小指をぶつけるほど悪い。
 

 ただ、戦闘能力は圧倒的にドラゴンに劣る。ブラックガーゴイルがドラゴンを殺したという可能性は低そうだ。とはいえ、高級モンスターは高級モンスター、当然俺なんかが太刀打ちできる相手じゃない。一分もあればミンチ状態だろう。
 

 虚空を見て、ただただ前進していたブラックガーゴイルが不意に俺を見た。ビクンと身体が反応する。
 

 ―――殺されるッ!
 

 そう思った瞬間、ブラックガーゴイルは俺から視線を外した。ホッと一息ついたのも束の間、今度は女の子に視線を向ける。女の子は冷静に杖を構えるが、又もブラックガーゴイルは視線を外す。
 

 そして、チビドラゴンに視線を向けた瞬間、全く表情を変えなかったブラックガーゴイルがニヤリと笑ったような気がした―――刹那、ブラックガーゴイルがチビドラゴンに向けて跳んだ。
 

 踏み出した一歩が途轍もなく長い、羽ばたかせている翼で滞空時間を維持しているのだろう。チビドラゴンは威嚇をする事も無く、ただ怯えている。攻撃を避けようとする意思すら見られない。そんなチビドラゴンを見兼ねたのか、女の子が呪文の詠唱を開始した。間に合うわけが無いと思っていたが、牽制用のお手軽呪文だったのか、数秒で大きな氷の塊がブラックガーゴイルの目の前に落ちた。
 

 「キシャアアアアア!!」
 

 「・・・・・・ッく!」
 

 耳の奥がキーンとなるような奇声を発し、女の子を睨みつけるブラックガーゴイル。その奇声に思わず耳を塞ぐ俺だが、一般モンスターハンターが数十人で取り囲んでも勝てるかどうかわからない高級モンスターの威嚇を、女の子は全く気にしていないようで、その隙を見て怯えるチビドラゴンへと走り、抱きかかえた。
 

 金ヅルは手放さないと言う事なのだろうか? とりあえず、俺はこの場から離れた方が良いのだろう。女の子を見捨てて逃げようと言う気が全く無いと言うと、泉の女神も斧を持って帰ってしまうだろうが、少なくとも表面感情ではそんな事思っていないはずだ。
 

 この子がどんなに優秀な魔法使いだろうが、高級モンスターに勝てる確立はとても低い。しかも、先の戦闘で実証されたように、完全なる足手まといの俺が近くに居れば、更に勝率が落ちるだろう。俺が勝利に助力する事が出来るとすれば、草叢に身を隠すなりしてブラックガーゴイルの標的から外れておく事だけだ。
 

 正面数メートル先に居る女の子とチビドラゴン、一人と一匹が居る地点からやや右方向にいるブラックガーゴイル。もっとも安全で確実な逃亡方法は振り返り走り去ることである。俺はソレを実行した―――しようとした。
 

 「グルルルルルル」
 

 だが、それは叶わなかった。いつの間にか真後ろに無数の頭があったからだ。
 

 ふわふわでふさふさな体毛は、この寒い夜に打って付けで、今すぐダイブしたい。だが、そんなことをしたらきっと、ふかふかな体毛に到達する前に、その大きな口から吐き出される火の玉で丸焼きにされてしまうだろう。いくら寒くともそれはイヤだ。
 

 更に、仲間を殺されたからか、随分と探し回らせたからか、この大犬達は随分と機嫌が悪そうなのだ。高級モンスターから逃れるだけでも困難なのに、そのうえ中級モンスターの群れに追いつかれてしまうとは・・・・・・本当に最悪な状況である。
 

 とにかく一人じゃ危ないと、女の子の元へと走る。大犬がその無防備な後姿を攻撃しなかったのは奇跡に近い。女の子の背中に隠れながら、何故俺を攻撃しなかったのかと、大犬達の様子を窺う。
 

 大犬達はどうやら、よわっちい俺など眼中に無いらしく、先ほど仲間を全滅させた女の子と、ブラックガーゴイルを睨んでいる。ブラックガーゴイルも女の子だけに集中せず、チラチラと大いにたちにも注意を向けていた。
 

 この様子から、ブラックガーゴイルと大犬は同じ群れの仲間でない事が明らかになり、もしかすると脱出できるかもしれないと、新たに希望が生まれた。
 

 「・・・・・・」
 

 「・・・・・・」
 

 「グルルルルルル」
 

 無言で、ただブラックガーゴイルだけを睨んでいる女の子。だが、ちゃんと大犬の行動も把握しているようで、大犬の一匹が一歩踏み出すと、すぐさま大犬に視線を移す。
 

 同じく無言で、女の子と大犬に交互に視線を向けるブラックガーゴイル。大犬一匹なら簡単に始末できたのだろうが、数が居る分大犬達の存在を無視することは出来ないようだ。
 

 唯一喉を鳴らし威嚇を続ける大犬。個々の能力は二人に劣るだろうが、集団という所が又厄介で、先ほどのように巧妙な策でも練られれば、二人を上回るかもしれない。
 

 続く膠着状態、鳥の鳴き声さえせず、ただ大犬の単調な喉を鳴らす音しか聞こえない静寂に近い状態の中、冷たい風が汗で濡れた服を更に冷やし、体温を奪っていくのを感じる。
 

 ・・・・・・あれれ? もしかすると、これは逃げれるんじゃないか?
 

 この三角状態なら、やはり振り返って走り去ってしまえば誰も追いつけないのではないか? 今は膠着状態だから、今なら、今なら逃げれるんじゃないか? 走り去ってしまおうか? という、この考えは楽観的すぎる発想。膠着状態は誰も動かないから膠着状態と言う訳で、俺が動けば膠着状態が解け全員動き出す可能性もある。でも、ずっとこの状態が続けば一番有利なのは大犬で、一番不利なのは俺達だ。大犬にはまだ群れの助けがある、いくらブラックガーゴイルと言えど、群れ全体を相手にするのは難しいだろう。だが、ブラックガーゴイルには翼がある、大犬の群れが助けに来た場合飛んで逃げればいいのだ。空なら敵の数も激減するだろうし、空中戦ならばブラックガーゴイルは高級モンスターの中でも上位の戦闘能力を誇るのだから。それに比べて俺達は飛べない、地上からの突進と空からの強襲とを同時に受けなければならないのだ。勝利はもちろん、逃げる事すら出来ないだろう。なら、女の子には悪いが今逃げるべきではないか? 逃げるべきだ。
 

 ざっと数分思い悩んだ結果、『逃げるべき』と結論付けられた。ゴクリと唾液を飲み込みゆっくり、ゆっくりと片足を後ろに下げる。
 

 ここで、何故か教会のへらへら神父を思い出した。
 

 『罪人は必ず神に罰せられるでしょう。特に、友達や仲間は大事になさって下さい。決して裏切りなどなさらないよう、信じておりますよ』
 

 そんなセリフを思い出していると、コツンと踵に硬い何かがぶつかり、バランスを崩した。そしてそのまま―――
 

 「―――どわっ!?」
 

 こけた。
 

 ドスンという壮大な音と共に腰に激痛。丁度腰の辺りの地面が出っ張っており、全体重をもって打ち付けてしまったようだ、その痛みはチビドラゴンの噛み付き攻撃に匹敵する。誰かに話したら『大した事無い』と笑われるだろうがそれは違う、チビドラゴンの噛み付きが本当に痛いのだ。
 

 「ッく・・・・・・ぅう・・・・・・」
 

 半泣きの顔を隠す事も兼ね、うずくまりながら腰をさすり痛みが引くのをただ待つ。だいぶ痛みが引いてきた所で、俺に天罰を下した硬い何かに目をやる。そいつはもう、すっかり見慣れた拳ほどの大きさの真っ赤に染まった石。コイツが神の代行者だとは思ってなかった。そういえば、不幸の源は全部こいつにあったような気もする。
 

 ふと視線に気づき顔を上げてみると、女の子がとても冷たい表情で俺を見ていた。無表情でなく、目を細めあからさまに怒っているとわかる表情だ。とても、とても怖い。
 

 「はは・・・・・・ははは」
 

 とりあえず笑って誤魔化そうと試みたが、世の中そう甘くなく女の子の冷たい視線が外れる事は無かった。
 

 「・・・・・・コホン」
 

 軽く咳払いをして立ち上がり、俺の勇敢なる行動で戦況がどう変化したかを確認する。結果から言うと、あまり変わっていなかった。
 

 ブラックガーゴイルは相変わらず女の子と大犬を交互に見て、女の子が俺を凝視しているのを確認すると、大犬に視線を送る時間を増やした。だが、ちゃんと女の子の事もちらちらと見ている。大犬も変わらず、時折喉を鳴らし、均等の数で女の子とブラックガーゴイルを監視を確認している。本当に誰も俺を意識していないのかもしれない。
 

 「うん、相手に隙を作ろうと頑張ってみたがダメだったようだ。どうしようか」
 

 別に逃げようとしたわけじゃない、ただ戦況を変化させようとしただけだ。と、胸を張ってアピールしてみるが、自分でやっていてちょっと見苦しかった。何より、更に女の子の視線が冷たくなった事がそれを証明している。
 

 「持って」
 

 冷凍ビームを出しながら、女の子がチビドラゴンと荷物袋を俺に渡そうとする。チビドラゴンに噛み付かれることを予想しながらも、この視線に逆らう事など出来ず、恐る恐る手を伸ばすが、チビドラゴンは予想外に大人しかった。
 

 小刻みに震えているチビドラゴンは、こういってはなんだが、可愛い。ずっとこのままで居てもらっても構わない。だが、何故こんなにもブラックガーゴイルを恐れるのかが俺にはわからなかった。やはり、それはモンスターの第六感というやつだろうか?
 

 「わ・・・・・・っと」
 

 チビドラゴンを受け取った後、荷物袋も預けられるが、予想外の重さに落としそうになる。何とか持ち直せたが、この重さは異常だ。そういえば本とか入れていたな、あれが原因だろうか?
 

 「落とすな」
 

 「はい」
 

 凍り付いてもおかしくない視線。落とさなくてよかった、落としたら何をされていたかわからない。本当にカチンコチンにされたかもしれない。
 

 ゾッとする想像をしているうちに、女の子が行動に出た、なにやら呪文を唱え始めたのだ。ブラックガーゴイルも大犬も、それに気がつかないわけが無い。ブラックガーゴイルが女の子と距離をとるのに対し、大犬は詠唱が終わる前に片を付けようと言うのか、女の子に突進を開始した。
 

 女の子は攻撃を避ける様子も見せず、詠唱に集中している。大犬が高く跳び、必殺の一撃を女の子に叩き込もうとした瞬間、女の子の詠唱が完了した。女の子が大きく杖を振ると、杖の先から猛火が噴き出し、大犬ごと辺り一面を焼く。
 

 大犬は火に強い。先の出来事から、それは当然女の子も知っているだろうが、それでも女の子は火の魔法を使った。何か策があるのだろうが、杖から噴出した猛火を直接食らったはずの大犬は全く涼しい顔をしている。何故、あの、もふもふな毛が燃えずに炎を弾き返しているのか、不思議でならない。効果と言えば、業火の圧力で大犬の動きが止まった事くらいだ。
 

 猛火は地面を焼き、茂みを焼き、木を焼いた。草木の絶えないこの森で、炎は炎を延々と生み続け、あっという間に辺り一面火の海と化した。何の植物が焼けたのか、嫌な臭いが鼻をつく。後に、この惨状を目の当たりにした、自然保護協会や動物愛護団体はどんな顔をするだろうか。
 

 体勢を立て直した大犬が又突進を繰り出そうとした時、一本の炎上する大木が丁度女の子と大犬の間に倒れた。狙ってやったのか、偶然なのかはわからないが、これで少しの間だろうが大犬達の注意を逸らせる事ができる。
 

 「逃げる」
 

 「は? え?」
 

 女の子が振り返ると同時にそう言うと、そのまま走り出した。思いもよらぬ行動に一瞬困惑するが、一切振り返らずに駆ける女の子の後姿で目が覚める。とにかく、ついて行かなければ命は無い。
 

 女の子の背中に向けて全力疾走しようとしたその時、
 

 「キュウ!」
 

 今まで腕の中で震えていたチビドラゴンが飛び出した。

 

 「わっ! 馬鹿、戻って来い!」

 うまく地面に着地すると同時に、ドラゴンの元へ走るチビドラゴンに叫ぶが、こちらも一切振り返らない。 
 

 チビドラゴンなど放っておいて、さっさと女の子を追いかけたいのが本心だが、チビドラゴンを抱えていないとバレれば、女の子に追いついた瞬間跡形も無く消し去られてしまうかも知れない。
 

 仕方なくチビドラゴンを追う。俺が追いつく頃には、もうドラゴンに到達しており、その傷ついた身体をチビドラゴンがチロチロと舐めていた。
 

 「ほら、早く逃げないと―――」
 

 「キュイ!」
 

 見ているだけで胸が痛む光景を止めさせようと手を伸ばすが、チビドラゴンは俺の手を尻尾でバシッと払い除ける。結構痛い。
 

 煙を吸いすぎたせいか、頭が妙にポーッとする。早くチビドラゴンを連れてここを離れたいが、このままじゃ、例えドラゴンが燃えようともチビドラゴンは動かないだろう。今俺がもっている薬が高級品とはいえ、死んだ者を蘇らす事までは出来ない。いや、どんな薬でも術でも、一度死んだものが生き返る事はなく、もしも生き返ったのなら、ソレはもう元のソレでは無い。全く別のモノだ。
 

 「キシャアアアアアア!」
 

 「!?」
 

 悩んでいるうちに、火で照らされるその真っ黒い全身が持つ、意外な光沢を明らかにし、ヤツがのそのそと戻ってきた。
 

 コイツには普通の炎でも効果があっただろうが、何処に身を潜めていたのか、ブラックガーゴイルは火傷一つ負っていなかった。
 

 女の子も居ない、チビドラゴンも言う事を聞かない、今はタイミングが悪すぎる。怯えながらも逃げ出さず、ドラゴンを庇うようにブラックガーゴイルの正面に立つチビドラゴン。この状態をどう打破するか、考える間もなくブラックガーゴイルはチビドラゴンに向けて跳んだ。
 

 「はやッ!?」
 

 さっき仕留めそこなった事で本気になったのか、先ほどより数倍も敏速な動きをするブラックガーゴイル。剣を抜き、チビドラゴンに直撃するギリギリで、なんとかブラックガーゴイルが振りかざした鋭い爪を防ぐと同時に、ガギンと金属同士がぶつかり合う音が脳にまで響いてくる。
 

 重い。大犬の攻撃とは違った重み。これは己が体重を加えた重みではなく、純粋な腕力による圧力。腕力だけで大犬以上の衝撃を出しているところ、やはり高級モンスターというべきか。もしも、俺の愛剣が名剣でなければ一撃でポッキリと逝っていただろう。
 

 「もう少し・・・・・・手加減・・・・・・して」
 

 「キシャアアアアアアアア!」
 

 ジリジリと押され、引きつった顔で惨めに頼み込んでみたが、ブラックガーゴイルには通じないようであった。高級モンスターの知能であれば、人間の言語を覚える事など容易いだろうが、覚えようと言う意思が無いようだ。
 

 この状態から押し返すのは難しい、ならば下がってチビドラゴンを回収して全力疾走を―――ビキッ。
 

 「はい?」
 

 嫌な音がした、敵方の武具からは何度も聞いたことがあるが、愛剣からは一度たりとも聞いたこと無い不快な音。
 

 見たくない。見たくないけど、見てやらなければいけない。
 

 冷や汗をだらだらとかきながらゆっくりと音のした方を向く。そこは丁度ブラックガーゴイルの爪と競り合っている部分。一瞬、あの音はブラックガーゴイルの爪から聞こえたんじゃないだろうかと言う甘い考えが過ったが、視界に映ったのは紛れも無く俺の愛剣が欠けている惨憺な姿だった。
 

 「じょ、冗談・・・・・・」
 

 目が熱い、きっと涙が溢れ出しそうなほど溜まっているだろう。
 

 命綱と言っても過言ではない愛剣。旅を始める前からずっと一緒だった愛剣。飯の時も風呂に入る時も寝る時もトイレだって一緒だった愛剣。それが、初めて傷ついた。ショックのあまりクラクラしてきた。
 

 これほどのショックを受けた事が無いので例えにくい。それでも例えるなら、恐らくそう、最愛の人物が自分を庇ってモンスターの攻撃を受け、死に瀕していると言った所だ。
 

 心身ともに自然と力が抜け落ちたその瞬間を見逃さず、俺の心情を知るはずも無いブラックガーゴイルが更に力を込める。押し倒されそうになるのをグッと堪え、こちらも反射的に力を込めてしまう。
 

 そうなると当然、愛剣にも負担がかかり―――ピキピキッ、更に欠けた部分から罅割れていった。
 

 「うわっ!? もうやめろ! 頼む、俺の負けでいいから!!」
 

 必死に戦闘の中断を訴える取り乱した俺を見て、ブラックガーゴイルはニヤリと笑ったような気がした。それは気のせいではないようで、どんどんブラックガーゴイルが力を込めてくる。
 

 剣を納めて退散したいのはやまやまだが、距離を取る隙がない。いや、例え隙が出来たとしても、数歩後ろに下がればチビドラゴンを踏んづけてしまう。うまくチビドラゴンを避けたとしても、その後ろにはドラゴンだ。逃げ場が無い。
 

 ―――ビキビキビキッ。
 

 愛剣に亀裂が入る。もう数十秒も持たないだろう。愛剣と共に俺の身体も真っ二つにされてしまうところ想像し、せめて死ぬ前に彼女の一人や二人や三人くらい作りたかったなと思ったその時、急に剣の重みが無くなった。
 

 ついに折れたのか、折れてしまったのか。そう思ったが、なんとか刀身は繋がっていた。変わりに目の前に居たはずのブラックガーゴイルが忽然と姿を消している。罠かもしれないと、辺りを見渡そうとした瞬間、遠くから飛んできた巨大な火炎球が目の前を横切る。
 

 「おわっつ!?」
 

 おわ、熱い。たぶんそう言おうとしたのだと思う。自分でもよくわからないセリフを吐きながら尻餅をつく。
 

 直接は炎に触れたわけでは無いが、それでも巨大な炎の塊から生まれる熱風は大したものだった。あと数ミリずれていただけでも鼻の頭を火傷していたかもしれない。
 

 炎の塊が飛んできたほうを見ると、女の子がこちらに向かって走っている姿があった。てっきり見捨てられたものだと思っていたのだが・・・・・・やはり意外と人情が残っているのかもしれない。
 

 「役立たず」
 

 展開的に、このまま俺の胸に飛び込んできて『大丈夫だった?』と上目遣いで見てくる事を期待していたのだが、考えてみればこんな知り合ったばかりで人情の欠片しかない女の子が、そんな可愛らしい事をするわけがなく、火の海の中でも凍りつける視線と言葉が俺を撃った。
 

 「し、仕方ないだろ、コイツが・・・・・・」
 

 剣を納めながらチビドラゴンに視線をやる。それでも、女の子の視線は『人の所為にするな』と冷ややかなものだった。事実なのに・・・・・・。
 

 「モンスターは?」
 

 視界に剣の亀裂しか入っておらず、ブラックガーゴイルの行動など見ていなかったためアイツが何処にどうやって姿を眩ませたのか知る由も無かった俺は、どうせ答えてくれないんだろうなと思いながらも女の子に聞いてみる。すると女の子は無言で空に視線を向けた、やっぱり口は聞いてくれなかったが、質問の答えはもらえた。どうやら飛んで行ったらしい。
 

 周囲に殺気を感じず、女の子が来てくれたと言う安心感からすっかり気が抜けている俺だが、女の子はまだまだ安心できないと言った様に辺りを見渡している。そして、その予測は当たり、ブラックガーゴイルが空中から落ちるように突進してきた。
 

 剣を抜いて構えなおしても攻撃を受けた瞬間ポッキリ逝く事は目に見えていたため、ブラックガーゴイルは女の子に任せ、俺はチビドラゴンを抱え上げ後ろに下がる。
 

 動物の扱いは慣れているといったが、流石にドラゴンの世話なんてしたことは無い。でも、四足と言う事は犬や猫と変わらず、捕まえる事さえ出来れば引っ掻かれない抱き方なんてお手の物だ。
 

 「こ、こら、暴れるなっ」
 

 「キュイ! キュウ!」
 

 とはいえ、隙を見せれば首に食いついてきそうなほど暴れるチビドラゴンを押さえ込み続けるのは中々の体力と気力が必要である。
 

 俺がチビドラゴンと格闘している間に女の子は呪文の詠唱を完了したらしく、杖を縦に振った。すると、周囲の風が向きを変え、目視出来ない大きなナニかがブラックガーゴイルに向かって高速で飛んでいった。
 

 恐らくアレは風の呪文、見えない刃の類だ。魔術に興味が無いので呪文名までは覚えていなかったが、人間の目には映らない脅威の攻撃呪文であると言う事で知識だけは持っていた。
 

 「ギヒャッ!?」
 

 俺の推測は当たったらしく、急速落下していたブラックガーゴイルが空中で見えない壁にぶつかったように弾んだ。大きなダメージを与えたはずなのに、それでも女の子の顔色は冴えなかった。女の子が思っていたよりはダメージが小さかったようだ。
 

 空中で体勢を立て直したブラックガーゴイルはもう一度女の子に向かって襲い掛かる。だが、今度はジグザグに動いているため、簡単には魔法を当てられない。
 

 更に、女の子は体調が悪いのか何故かふらついている。俺も先ほどからやたらと目眩がし、激しい頭痛に悩まされている。先ほどまで元気満タンだったチビドラゴンも何故か今は大人しい。というよりは、活力がなくなってきていると言った方が正しい。やはり女の子にもこの症状が出ているのだろうか?
 

 そういえば、大犬がまだ現れない。あの業火を浴びて平気だったのだ、こんなちんけな山火事などモロともしないはずなのに。それでも大犬が襲ってこない理由、あるとすれば、先ほど山火事を発生させた時から鼻を突くこの嫌な臭いだ。
 

 俺達は長時間道に迷った。同じ場所をグルグルと回ったかもしれないし、ジグザグに動いていたかもしれない。それでも大犬が俺達を見つけ出せたのは、恐らく犬特有の良く利く鼻のおかげだ。そして、女の子はそれを見抜き、この辺りにある何か有害の植物を燃やし、その臭いや効果で鼻を潰したのだろう。今頃悶え苦しんでいるのかもしれない。大犬にトドメを刺さず、その場をすぐに離れようとしたのは、人間にも有害なガスを発する植物を燃やしたからじゃないだろうか。実際、教会とは違い深く煙に捲かれる心配の無い野外で、煙のせいでこんなに身体が重くなるとは思えない。
 

 何発も巨大な炎の塊や氷の矢を打ち出した女の子だが、そのどれもがスレスレでかわされる。威力は風の刃よりあるようだが、スピードで劣っているようだ。
 

 「・・・・・・ッ」
 

 最初は遥か上空にいたブラックガーゴイルも既に目と鼻の先、女の子にも焦りが見える。切羽詰ってきたようだ。
 

 俺もこれはまずいと、何か武器になるものを探す。こんな荒れ果てた森にあるものと言えば朽ちた木の枝くらいで、仕方なくその場にあった手ごろな棒を拾った。が、棒の先に生えていた枝や葉の重さで棒の中間辺りがボキリと折れる。今日は本当に不運が続く。
 

 「キシャアアアア!!」
 

 ブラックガーゴイルが残りの距離では魔法を発動する前に女の子に到達出来ると踏んだのか、ラストスパートをかけるように真っ直ぐ女の子に降下し、スピードを上げた。同時に、女の子が詠唱を開始する。
 

 間に合わなければ死が待っている状況での詠唱。もしも詠唱の方が早ければ、ブラックガーゴイルを倒すとまではいかなくともかなりのダメージを負わせる自信があるのだろう。だが、その考えは甘かった。
 

 「キシャアアアアア!!」
 

 牙を剥き、爪を振り上げ強襲してくるブラックガーゴイルのスピードが女の子の想像を遥かに超えていたから。女の子が今までに無いほど焦っているのが雰囲気で分かる、それでも女の子が詠唱を止めて逃げないのは何故だろう。
 

 単に逃げ切る自信が無いだけだろうか? いや、それは違う。狙いはチビドラゴンなのだから、逃げるだけならさっさと俺達を置いて走り去ればまだ何とかなるだろう。だが、女の子はこのチビドラゴンを守るために、この機会を逃すことなく身体を引き裂かれてでも詠唱を完成させ、ブラックガーゴイルにダメージを与えなくてはならない、そうしなけば倒すどころかチビドラゴンを連れて逃げ切る事も出来ないと考えているのだろう。
 

 もしかすると、もしかすると守護リストの中に俺の名前も入っているかもしれない。名前も教えていないし、その可能性は低いが、もしかするともしかするかもしれないのだ。そんな献身的な少女を見捨てられるのかと問われれば、俺は迷わず『うん』と言う。
 

 それは当然な事だろう? だって、俺はまだ若い。パーティーを組んでわいわい冒険したり、恋人を作っていちゃいちゃ青春したりと、多種多様な楽しみが俺を待っているのだ。まだ人生の半分も謳歌していないというのに、自分の命を他人に捧げてなるものか。
 

 確かに俺は諦めが早く、自分の命を割と粗末に扱ったりもする。だからといって自ら首に刃を当てた事など無いし、見返りも無い人助けなんて成り行きでしかした事は無い。
 

 だから、俺はチビドラゴンとその他荷物をその場に置いて走り出した。
 

 「・・・・・・ッ!?」
 

 前方十数歩も無い距離を一気に駆け抜け、その小さな背中を押し退ける。予期せぬ方向からの衝撃に何の抵抗も出来ずに、女の子は詠唱を中断させられバランスを崩し倒れた。標的が増えた事に一瞬だけ困惑しスピードを落としたブラックガーゴイルだが、一人ずつ倒していけばいいと考えたのか、そのまま目的地を変えずスピードが上げる。ただ、攻撃対象は俺に変わってしまった。
 

 体当たりを食らっただけでも身体がバラバラになりそうなスピードの癖に、その上ブラックガーゴイルは鋭い爪を俺の胸目掛けて突き出している。せめて愛剣さえ無事ならば、腕が折れようともげようと一撃くらいなら防げただろうが、こんな木の棒じゃそれも叶わない。
 

 「キシャアアアアア!!」
 

 「クッソォ!」
 

 無駄だとわかっていようと、勝利を確信し早くも勝ち鬨をあげるブラックガーゴイルの爪に向けて木の棒を打ち振る。スローモーションで見えた気がする爪、触れ合った瞬間に音も衝撃も無く切り裂かれた木の棒、ニヤリと笑ったガーゴイル。
 

 ああ、待った、ちょっとタンマ、時間よ止まれ。このまま行くと確実に俺は死んでしまう、頼むから、頼むから許してくれ。黙って懇願する俺の声はやはり届かず、一瞬にして異物が俺の体内に減り込んだ。
 

 「グ・・・・・・ァ・・・・・・ッ!」
 

 木の棒には無かった衝撃が肋骨に響き、勝手に全身がくの字に曲がる。激痛と共に異常な嘔吐感に襲われ、自分がどうなってしまったのかを確認する事も出来ない。
 

 こうなることはわかっていた、女の子を助けるには自分の身が犠牲になってしまうだろうと。何でそんな行動を起こしたのか自分でもさっぱりだ、目の前で盗賊に襲われている女性を見捨てようとした事もあれば、餓え苦しんでいる子供にパンを見せびらかし貪った事もある俺が見返りの無い人助けなんてするはずが無いのに。
 

 いや、そうか、俺は見返りを求めたんだ。きっとうまくいけばパートナーができると考えたに違いない。更に、パートナー同士で結婚するなんてよくある事で、そこまで期待していたのかもしれない。だが、死んでしまっては意味が無いじゃないか、なんでこんな簡単な事を考慮しなかったのだろうか。
 

 不意に感じた浮遊感、天に昇っているのかもしれない。半分も開いていない目から見えるブラックガーゴイルが離れていく、コレで俺が空に向かって飛んでいたのなら昇天に間違い無いのだが、どうやら俺は地面すれすれを飛ばされているようだった。
 

 「―――ぐァッ! ァ・・・・・・」
 

 かなりの距離をぶっ飛ばされ、やっと止まったと思ったら背中に鈍痛、このゴツゴツとした硬い物は木だろう。ブラックガーゴイルの超加速切りつけ攻撃をモロに受け、俺はぶっ飛ばされたらしい。全身がバラバラにやったかのような痛みが走っているが、ここまで思考が働くと言う事はどうやら生きているようだ。
 

 それにしてもおかしい。上半身を起こし背を木に預け、自分が生きている事と再び女の子とブラックガーゴイルが戦闘を再開したことを確認して、何故自分が生きているのかを考えた。
 

 あの速度で体当たりを食らえば内臓破裂は確実で、更に長い爪に串刺しにされた筈なのに、俺はまだこの世に生を持っていた。痛みの残る胸を見てみるが、やはり爪を突きたてられたようで服が裂けている。だが、赤黒く染まってはおらず、変わりに白銀の何かが顔を覗かせていた。
 

 特に日焼けをしていないためどちらかと言うと俺の肌は白い方だが、こんなに真っ白く輝く肌ではない。ではこれは一体何か、考えずともわかった。
 

 「きょ、教会で拾った・・・・・・」
 

 破れた服から引っ張り出したそれは、教会で女の子から隠し通そうと服の下に入れておいた銀色の剣だった。コイツに命を救われた事はわかったが、やっぱり不可解な点が持ち上がる。
 

 前に述べたように、この剣は軽い。どんな金属で精製されているのか羽より軽いかもしれない。とはいえ、こんな物を服の下に入れて歩けば胸や腰に当たって邪魔になる。更に、地肌に触れていたため絶対に何らかの感触はあったはずなのだが、それを気にする事が無かったどころか、剣の存在を今まですっかり忘れていた。
 

 まるでそう、その場にあってその場に無い、この剣が昔から俺の胸に張り付いていたような、身体の一部のような感覚。気持ち良いようで気持ち悪い、頼もしいようで恐ろしい、この剣に触れているだけでそんな心情が湧いてくる。俺の五感が狂ったわけじゃない事はこの痛みで証明されているはずだが、教会で剣に触れた時にはこんな感情は生まれなかった。
 

 そういえば、特殊な環境下によりその力を最大限発揮する武具を見たことがある。長年土に埋もれた石や雷に打たれた木などには魔力が宿る事があり、そういう特殊な材料を使って作った武具は、炎で炙ったりして熱を持たせることにより切れ味を倍増させたり、水をかけるなどで濡らす事で硬度を上げる事が出来たりと特異な性能を秘める。当然、そんな特別な武具は値段も普通じゃない。
 

 「コレもそうなのか・・・・・・?」
 

 ゆっくりと鞘から剣を抜き掲げる。炎と月の光を反射させ輝く銀の塊は、神聖さを感じさせる色合いだと言うのに、何処か妖美で不気味だった。俺を包み込むような光は優しく暖かいが、何かを求めているように執拗に絡みつき、見ているだけで吸い込まれそうになるのを煌く刃が全てを拒絶するように視線の先へ立ちふさがっている。
 

 「・・・・・・そういえば」
 

 剣を恍惚と見つめながらポツリと呟く、それ以外の周りの音が耳に入らず、視線は剣に釘付けになっていた。
 

 すぐにでも思考が停止して、意識が飛びそうなのはガスや煙のせいだけなのだろうか。女の子はまだ戦っているのか、チビドラゴンは無事なのかも気にならなかった。
 

 今とても大事なのだろう記憶がすぐそこまで出てきているというのに、完全に出てこない。何かに拒まれているように靄が張り、薄っすらと影しか見えないのだ。この届きそうで届かない記憶を掴み取らないと、今すぐ思い出さないと取り返しのつかないことになりそうで、俺は記憶の探索に没頭した。
 

 ―――知らないで。
 

 「え?」
 

 ふと、頭に響いたその声で我に返った。周りを見渡してみるが、女の子はブラックガーゴイルと接戦を繰り広げているし、チビドラゴンもドラゴンに寄り添い震えており、俺に声をかける人は見当たらなかった。
 

 では、あの声は誰の声だったのか、またも増えた謎を推理しようとも考えたが、そんな事をやっている場合じゃない事に気が付く。
 

 ブラックガーゴイルの猛攻を女の子は掠りながらも冷静にかわしており、時折魔法を繰り出しダメージを与える。女の子が妙に冷静な分、ぱっとみたところ互角のように見えるが、よく見ると傷だらけなのは女の子だけでブラックガーゴイルは全くの無傷だった。
 

 強力な魔法を使うためには相応の詠唱時間を必要とするのはご存知の事、女の子は猛攻を受けているため威力が落ちても詠唱が短い魔法しか使えず、大したダメージを与えられないようだ。威力が落ちているといっても、俺の身体と変わらない大きさの真空刃を飛ばしている。
 

 宮廷魔術師でさえも数秒の詠唱では頭サイズの炎弾を出すのが限界だろう、それを遥かに超す大きさと精密さ、やはりこの女の子は世界屈指の魔術師になれる素質と実力を持っている。そして、それを何発食らってもブラックガーゴイルの動きは鈍らなかった。
 

 このまま状況に何の変化もおきなければ、確実に女の子は負ける。予想的中率三十パーセント未満の俺だが、今回の予測だけは自信がある。
 

 「ああ、もう・・・・・・だから嫌だったんだッ! さっさと逃げればよかったッ!」
 

 女の子に聞こえない事を祈りながら大きく愚痴をこぼし、新品だとアピールしているかのように輝く剣を支えに立ち上がる。全身打撲に嘔吐感、頭痛腹痛筋肉痛に、寒気に眠気。ボロボロの身体をフラフラと起こすのだけで一杯一杯だ。
 

 軽く深呼吸をしながら剣を握りなおす。考えてみると、愛剣以外の剣を使うのは初めてかもしれない。
 

 「よろしくな、相棒」
 

 優しく柄を撫でながら声をかけるが当然返答は無い。一時的とは言え、命を預ける事になる相棒への挨拶も済ませた、もう時間稼ぎになりそうな行動も残っていない。大きく息を吐きながら瞳を閉じる。
 

 やはり、何をしようと恐怖心は拭えない。痛いのは怖い。苦しいのは辛い。死ぬのは好きではない。それでも、今更見捨てようなんて気は起きなかった。さっき散々迷った結果、俺は女の子を助けてしまったんだ、それならとことん助けてやろう。もちろん、謝礼は相応な物を要求してやるつもりだ。
 

 ゆっくりと瞼を開き、ブラックガーゴイルを見据える。今まさに木に追い詰めた女の子にトドメの一撃を加えようとしている黒い光沢を放つ硬そうなあの皮膚を、このショートソードはちゃんと切り裂いてくれるだろうか、反撃を受けたら一瞬で折られないだろうか。そんな不安が生まれてくる。
 

 ―――大丈夫。
 

 そんな声が聞こえた気がした、ついに恐怖心から妄想に走ってしまったのかもしれない。けど、例え空耳だとしても、その声は俺に最後の一押しをしてくれた。
 

 「ハァアアアアアッ!」
 

 喉が張り裂けそうなほど叫びながら走る。あとで喉が涸れてしまうだろうこの行動には二つの意味がある。こちらに注意を向けさせないと女の子が危険なのと、どうせこっそり近づいてもばれるのだからハデに行ってやろうと言う気持ちだ。
 

 真後ろからの咆哮に、振り上げたその腕を下ろすことを忘れ振り向いたブラックガーゴイル。死んだ、少なくとも完全に戦力外になっただろうと思っていた俺が立ち上がった事に驚愕しているようだった。
 

 女の子はその一瞬の隙を見逃さない。すぐに何処からかナイフを取り出すと、それを両手で逆手に持ちブラックガーゴイルの胸に突き刺した。
 

 「ギャアアアア!!」
 

 苦痛に悲鳴をあげるブラックガーゴイル。ナイフ自体が刺す事を目的に作られた尖ったもので、更に女の子の細い腕とはいえ全力を込めて突き刺したはずなのに、刃の三割も身体にめり込んでいなかった。
 

 それだけブラックガーゴイルの皮膚が硬いのだろう。怒りに瞳を燃やしながら女の子に向き直り、振り下ろしたその腕より早く、俺はブラックガーゴイルに一撃を加えられる距離に居た。
 

 もう迷いは無い。俺はただ、死に面しているというのに冷静な面構えを崩さない女の子を助けるため、白銀の剣を信じて悪魔の首に振り下ろせばいいだけなのだから。
 

 ―――ブンッ。
 

 ブラックガーゴイルの首に一撃を叩き込んだ瞬間、皮膚の硬さのせいか、剣が重くなった気がした。まるでマキを割ったような感覚、一瞬で首が飛び、手に残る感覚も微かで骨があったのかどうかもわからない。
 

 首と同時に生命も失ったはずのブラックガーゴイルだが、勢い付いた腕は止まらない。目標を無くしたその腕は、爪の先で女の子の頬を掠め小さな傷を付けると、そのまま身体を引っ張り冷たい地面に倒れこんだ。
 

 「ハァ・・・・・・ハァ・・・・・・」
 

 ボロボロな上に急激な運動をしたためか、目前にいる女の子が三人にも四人にも見え、身体がやたらと酸素を求める。心臓は破裂しそうなほど運動しているのに、手足はもう動いてくれなかった。
 

 散々手間を取らせてくれた高級モンスターと言えど、死んでしまえば呆気ない物で、その亡骸はピクリとも動かず夜風に曝されていた。
 

 あ、もう立ってられない。そう思ったのが早いか、何も言わず次の行動を伺うように俺を見ている女の子に声をかける事も出来ず、横に半回転しながら仰向けに倒れる。同時に、この森全ての草木が揺れたんじゃないかと思うほど大音量のざわめきが耳に入った。半開きになった瞳から見える空は山火事で真っ赤なんだろうと予測していたが、いつの間にか無数の黒に覆われていた。
 

 もしかすると、俺の見間違いなのかもしれない。疲労が溜まり過ぎて頭がおかしくなっているのかもしれない。きっとそうだ。だって、その黒が全てブラックガーゴイルに見えるなんてありえないじゃないか。それとも、今殺したブラックガーゴイルの呪いか何かだろうか。
 

 何百匹いるかも知れないブラックガーゴイルのうち、先頭の一際大きいリーダー格が俺を見てニヤリと、楽しそうに、嬉しそうに笑った。
 

 すっかり料理された目の前の餌に顔を綻ばせたのかもしれないし、これから殺される俺に哀れみを込めた笑みだったのかもしれない。朦朧とする意識の中、轟々と辺りが燃えてゆく音とそいつのその顔だけがしっかりと脳裏に刻み込まれ、俺は意識を失った。

 

 

 

 

  右も左も上も下も正面も、四方八方どこまでも白、そんな空間に一人の女の子が居る。
 

 歳は俺と変わらないくらいだろう。スラリと細長く、全くと言って良いほど日に焼けていない白い腕が強調される黒いワンピースを身に纏っているその子は、長い黒髪を一つに結っていた。
 

 その瞳は悲しみと哀れみで溢れそうになっていたが、その中に何処か期待にも似た輝きがあった。極最近会ったような気もするのだが、どうも思い出せない。雰囲気だけで言うと大犯罪者のあの子にも似ているのだが、身長も顔つきも違う。あの子はもう少し背が低いし完全に無表情だ。
 

 じっとこちらを見ているだけだったその子が唇を動かした。大して遠い距離でもないのに、声は聞こえない。でも、何故か伝えたい事は分かった。
 

 ―――ごめんなさい。
 

 それだけ言うと、すぅっとその子は消えた。
 

 同時に、真っ白な空間が真っ黒になった。

 

 

 

 

 パチパチと何かが弾ける音がする、右半身が妙に暖かいことから推測するに、焚火の音だろう。何故だか全身がズキズキと痛く、それを加えてまだ眠いので起きたくない。でも、意識が半分覚醒してしまったようで、二度寝をする気にもなれなかった。
 

 完全に頭を覚醒させるのも兼ねて何故身体がこんなにダルイのか思い出す。
 

 昨日は何をしていたんだったか。確か、巨大化したブタのような下級モンスターの群れを見つけ、数ヶ月ぶりの肉だとハシャギ、群れに突っ込み返り討ちにあったんだっけ? いや、アレはもう少し前の話か。じゃあ昨日は・・・・・・。
 

 「・・・・・・あッ!?」
 

 目を見開き、鉛のついたような身体を無理矢理飛び起こす。『大犯罪者』言うキーワードで昨日の記憶が全て蘇った。チビドラゴンの事、ブラックガーゴイルの事、山火事の事、女の子の着替えを覗いてしまった事・・・・・・いや、コレは忘れた方が身のためかもしれない。
 

 首が千切れそうなほど振り回して辺りを確認する。そこは一点を除いて闇の世界、太い木々がお化けに見えたりしそうで不気味だ。どうやら本当に焚火の音だったようで、俺はあの山火事現場から安全地帯に運ばれたらしい。まだ夜で森を抜けて居ない所、そう遠くに運ばれたわけでもなさそうだ。
 

 今は俺を運んだのが誰なのかを知るより、ブラックガーゴイルの方が気になった。あの群れは幻だったのか現実だったのか、現実なら何故俺は生きているのか、チビドラゴンや女の子は無事なのか、俺の愛剣は直ってくれるのか、山火事の責任は俺にもあるのか、国に逮捕されてしまうのか。考えれば考えるほど混乱する。
 

 もしかしたら俺は今ブラックガーゴイルに捕らわれているのかもしれない。どこかその辺に大きな鍋が用意してあり、その煮立った熱湯へぶち込まれようとしているところだったりして・・・・・・想像するだけでゾッとする。
 

 「その心配はありません」
 

 何処からか聞こえた女の声に、俺の身体はビクン弾み過剰な反応をした。決して大人っぽい声ではないのだが、その冷静で淡々とした口調は凛々しい女性を連想させた。でも、周りを見渡しても暗闇ばかりで声の主は見つからない。
 

 「こちらです」
 

 再び聞こえた声はやたら下から聞こえた。地面が喋るわけでも無いし、誰かを下敷きにでもしてしまっているのかと慌てて飛びのく。だが、やはりそこは地面で何も無かった。もしかして地中の中に居るモンスターが俺をからかっているのだろうか。
 

 「いえ・・・・・・こっちです」
 

 更に聞こえたその声は、何故か俺の右手から聞こえた気がした。そういえばずっと何かを握っていた事に気が付き、それが何かを確認する。
 

 それは白銀の剣、そういえば鞘に収めた覚えも無ければ気絶した時に放した覚えも無い。まさか、寝ている間もずっと持っていたのだろうか? 人並みに寝返りは打つ方だが、怪我がなくてよかった。
 

 で、声の主は何処だろう。
 

 「信じられないのも分かりますが、私です」
 

 呆れと、ほんの少し悲しみの様な物を感じられるその声は、やっぱり白銀の剣から聞こえてきた。
 

 しかもコイツ、先ほどから俺の思考を読み取っている。背筋が凍り、未知なる存在への恐怖が込み上げてきた。
 

 「けけっけけけけ剣が喋ったああああああ!?」
 

 込み上げた物が一気に爆発し、俺は剣を遠くに投げようと腕を振り回した。
 

 「あれ!? 放れない! 手にくっ付いてるのか!?」
 

 いくら腕を振り回そうと剣が放れないのもそのはず、とにかく距離をおきたいと言う気持ちとは裏腹に、手はしっかりと白銀の剣を握り締めていたのだから。
 

 なんだこれは、呪いか? 呪われた剣なのか? 
 

 「落ち着いてください、害を与えるつもりはありません。・・・・・・今の所は」
 

 「最後の一言で余計に安心できなくなった! 放れろ! 放れてくれ!」
 

 冷静に俺を宥めようとする剣だが、一言余計だった。
 

 今の所は害を与えない? つまり、そのうち害を与えるってことじゃないか、そんなものを近くに置いておけるわけがない。全身がボロボロなのも忘れ立ち上がり、更に強く腕を振り回す。剣を放す事で頭が一杯で、近くの茂みがガサガサと揺れたのも気にならなかった。
 

 そこから顔を出したのは、先ほど俺が救ってやった女の子とチビドラゴン。先の戦いでの生々しい傷跡は一切癒えておらず、何処で何をしていたのか、かなり疲れているようだ。そんな女の子から『何やってるんだコイツ』とでも言いたげな冷めた視線で刺し貫かれても、俺は冷静さを取り戻せなかった。
 

 「ああ、いい所に! この剣が急に喋り出して、一生放れてやらないって、呪い殺すって言ってるんだ!」
 

 恐怖で涙目になりながら女の子に訴えるが、全く取り合えって貰えない。チビドラゴンも暴れまわる俺を怖がっているようだ。
 

 「申し訳ありません、言い方が悪かったようですね。私から貴方へ直接危害を加えることはありません」
 

 「!」
 

 女の子達の登場を特に気にすることなく、白銀の剣は自分の発言を訂正する。無機物であるはずの剣が本当に言葉を発した事に、女の子はほんの少し表情を変え、驚いたように剣をジッと見つめ出した。チビドラゴンは普通剣と言うものが無機物だと言う事もわからないようで、気にしていないようだ。
 

 白銀の剣があからさまな敵意を持っていない事と、心強い味方・・・・・・かどうか、まだ分からないが、敵でも無いだろう一人と一匹が現れた事で、少しだけ落ち着きを取り戻す。
 

 「き、直接危害を加えるつもりは無いと言われてもな、じゃあ間接的には加えるってことか?」
 

 「・・・・・・」
 

 白銀の剣は黙り込む、どうやら図星のようだ。
 

 直接的だろうが間接的だろうが関係ない、俺に危害が及ぶのならば傍に置いておくのは危険だ。
 

 「と、とにかく放れてくれよ。俺だって鬼じゃない、その辺に捨てて行ったりはしないから。ちゃんとその手の物を集めてるマニアに売るつもりだからさ」
 

 冷や汗を垂らしながら、放れるよう説得を試みる。余計にタチが悪いと思われそうなセリフだが、そんなことはない。
 

 マニアと言うのはコレクションをちゃんと愛情を持って大事にする。朝昼晩の手入れを欠かさず、決して傷がつかないように管理し、時に仲間にコレクションを自慢したりもする。つまり、この白銀の剣も然るべきコレクターの下へ売られれば幸せになれるわけだ。ついでに、俺も金が入って幸せになれる。
 

 「・・・・・・わかりました、私を鞘に収めてみてください」
 

 その、何処と無く悲しそうな声に罪悪感を感じないわけでもないが、やはり自分の身は可愛い。俺に出来ることはちゃんとしたコレクターに売ってやる事だけだろう。
 

 「わかった、鞘だな。ええっと・・・・・・鞘が無いッ!?」
 

 自分の身体とその周りを確認してみるが、鞘だけでなく、大切な道具袋も無い。腰に差していた愛剣など身に着けていたものは無事だが、他のものは全てなくなっている。
 

 慌てて回想してみると、確かブラックガーゴイルに殺されそうな女の子を助けに行くため、チビドラゴンと共にその場に荷物を全て置いたんだった。鞘は確か、背もたれにしていた木の根元に置きっぱなしだ。
 

 戻ろうにも道がわからないし、恐らくまだあの辺り一帯は燃え続けている事だろう。そんな所に飛び込むなんて自殺行為だ。数日後、完全に焼失した森に戻ってきたとしても、あの木があっただろう場所を探し出す自信も無い。
 

 「一応聞いておくけど、鞘が無いとどうなるんだ?」
 

 「一生このままです」
 

 平然と告げられたその言葉は、酷く絶望的な意味を持った物だった。一生抜刀状態だと、どれだけ不便か考えてみる。
 

 町に入ろうとすると、警備兵が押し寄せて逮捕されるかもしれない。寝ている間にぶっすり身体に剣が突き刺さっているかもしれない。食事の時に、剣をスプーン代わりに使うとして、口を切ってしまうかもしれない。なんて不便なんだ。
 

 「町に入る時には布を巻きつければ大丈夫でしょう。寝ている間にマスターに傷をつけてしまわぬよう己を管理する事くらいなら出来ます。スプーンは・・・・・・左手で持ってはどうでしょうか」
 

 頭に浮かんだ災厄の対策を剣は一つ一つ淡々と告げる。意外と頭が回るヤツのようだ。
 

 一瞬、それなら大丈夫かななんて考えてしまったが、右手が使えないと言うデメリットはこれから数千数万の難点を生むだろう。それら一つ一つをうまく解決するなんて無理だろうし、何よりこの剣が手に張り付いている事で生まれるメリットがない。
 

 自分で言うのも何だが、俺は損得勘定で物を考える利己的な性格で、それをうまくこなせている方だ。今まで俺の計画通りに事が運んだ事は十パーセントにも満たないが、それでも得をした事は大よそ二十三パーセントにも及ぶ。
 

 そんな計画的な俺が、これからの人生に支障をきたすだろう右手の支配を許しておくわけが無い。何とかコイツを引き剥がせない物か。
 

 ようやく冷静になった頭で『白銀の剣大売出し大作戦』について計画を練るが、いいアイデアが浮かばない。指を切断するなんて当然却下だし、油でヌルヌル作戦も肝心の油がない。肉脂でもヌルヌルするよなぁと、チビドラゴンを見つめていると、何を感じ取ったのかチビドラゴンは怯えて女の子の後ろに隠れてしまった。チッ。
 

 視線がチビドラゴンを追いかけると、必然的に女の子が目に入る。衣服も身体も傷だらけで、傷自体は浅いのだろうが外傷だけで言うと俺よりずっとダメージを負っていた。見るからに痛そうで、今消毒液の風呂にでも入ったらショック死してしまいそうだ。
 

 そんな惨憺な女の子だが、杖と道具袋は傷一つ付いていなかった。あの杖は俺の愛剣を大破寸前に追い込んだブラックガーゴイルの攻撃を何度か正面から防いでいたはずなのに、全くの無傷。削って槍にでもすれば金貨五百枚は下らないだろう。
 

 道具袋もあの激戦でよく無事だったものだ、中身ごとゴミクズ同然にバラバラになってもおかしくなかっただろうに。そういえば、戦っている女の子は道具袋なんて背負っていただろうか? いや、確かあの軽快なフットワークに揺れていたのは糸の様に細く美しい髪だけで、あんな重い物は無かった。じゃあ何処にあったんだったけか? ・・・・・・そうか、俺が預かったんだった。チビドラゴンと女の子の荷物と俺の荷物、全部まとめてドラゴンの近くに置いて来たんだ。それを女の子が持っていると言うことは、もしかすると・・・・・・。
 

 「あの、ちょっとお聞かせ願いたいのですが、その道具袋があった近くの木の根元辺りに銀色に輝く鞘が置いてありませんでしたでしょうか?」
 

 だらしない、にへら笑いを浮かべながら相手の気に触れないようそっと聞いてみる。
 

 聞かれた女の子は一瞬の戸惑いも見せず、自分の道具袋から銀の棒を取り出した。アレは紛れもなく白銀の剣の鞘だ。
 

 「それだそれ!」
 

 そんなに距離も無いと言うのに、女の子の元までダッシュで向かい、その手から鞘を奪い取るように貰い受ける。
 

 早速剣を鞘に収めると指の硬直が嘘のように解け、パッと剣から手が放れる。汗ばんでいたわけでも皮が剥がれたわけでもないが、その手は何処と無い寂しさを訴えるように冷えていく。気が付かなかったが、やっぱり森の夜は寒い。
 

 「よかった、鞘が手にくっ付く事は無いか」
 

 鞘を交互に持ち変えて見ることで少し不安だった事も晴れ、未知なる喋る剣をじっくりと観察する。
 

 外見は特に変わった事は無く、異常なのはこの軽さくらいだ。この煌びやかな銀に滑らかな切れ味、それだけでも大富豪は一生遊んで暮らせるだけの金を出してくれるだろうが、その上対話できるとなれば末代まで安泰だ。
 

 「でも、お前は他人の物なんだよな」
 

 金で雇った女達に囲まれ、ハーレム気分を味わう妄想をしている所でその事に気が付く。
 

 この剣は教会にあったもので、恐らく誰かの忘れ物か、教会の貴重な備品を隠してあったものだ。そんなものを勝手に持ち出して、バレたら逮捕どころじゃ済まないかも知れない。
 

 そりゃ、別の大陸にでも行って売ってしまえばバレる可能性は低いだろうが、やっぱりこの剣自体が持ち主の元へ戻りたいのであれば、俺はその持ち主を探してやるつもりだ。
 

 武具にだって幸せと言うものがある、新品の剣を買ったから前の剣はそこらの道端に『ポイッ』だなんて、俺は許せない。新しい剣を買うくらいなら前の剣を強化してやれ。武具は冒険者の相棒だ、その相棒とうまく付き合っていけないヤツは、冒険者なんて辞めちまえと俺は思っている。そりゃ、新品の綺麗な武器に目が行くのもわかるが、そこを我慢するのが冒険者と言う物だ。致し方ない例として、武具が壊れてしまった場合がある。それこそ、修理できないほどバラバラに壊れてしまった場合。そんな時はその辺に埋めるのではなく、ちゃんと鍛冶屋にもっていけ、大抵の鍛冶屋は使い古された武具を人間の葬式のように壮大な供養をしてくれるのだから。効果があるのかどうかは知らないが、そこは気持ちの問題だ。
 

 「いえ、私に持ち主は居ません」
 

 せっかくの俺の真心をぶち壊すように剣は言う。
 

 「居るとすれば、貴方が私の主人と言う事になるでしょう」
 

 そう言う剣の口調は決して俺をおちょくっている物ではなく、真剣そのものだった。
 

 俺はこんな奇妙な剣の持ち主になった覚えは無いし、なる気もない。長年連れ添った相棒だけで身を守るには十分だし、何よりこの白銀の剣を近くにおいておけば危険が身に迫ると自ら暴露したじゃないか、何でそんな自殺行為をしなくてはならないのか。
 

 心底そう思ったが、先ほど、ああ言ったからには無下に一蹴するわけにもいかない。何とかコイツを説得して、ちゃんとした別れ方をしようと、俺の短所とコレクターの長所を大げさにあげる事にした。
 

 「いいか? お前も見ていたとは思うが、これを見ろ」
 

 腰に差していた愛剣を半分抜き、そこに白銀の剣を近づける。無惨にも一線の亀裂が入ったその愛剣は、ちょっとした衝撃でも真っ二つに折れそうだ。
 

 そんな悲惨な愛剣を見ていると、胸が痛くなってくる。
 

 「わかるだろ、俺が主人だとこんな悲惨な目に遭うんだ。俺の力が足りないのが原因でな」
 

 俺は沈痛な面持ちで愛剣をただ見つめる。
 

 「それに比べ、コレクターは大事に扱ってくれる。こんなにボロボロにならなくて済むんだよ。・・・・・・こいつもその方がよかったかもなぁ」
 

 演技のつもりだったが、言葉をならべるごとに本当に演技かどうか自分でもわからなくなる。
 

 長年連れ添った相棒の剣だが、今まで俺と一緒に居て良い事が一つでもあっただろうか? 雑な攻撃と無理な防御の繰り返しで普段から相当な負担を掛けていたはずだ、今回折れてしまったのだって、そこに大きな原因があったのではないか?
 

 今まで、この剣を欲しがったコレクターや剣士は山のように居た。本当に大事に扱ってくれるコレクターも居ただろうし、剣に負担を掛けない熟練した剣士も居ただろう。そんな奴らに渡した方がよほどこの剣は幸せになれたんじゃないだろうか。相棒だと思っていたのは俺だけで、この剣は俺の事を憎んでいたんじゃないだろうか。
 

 思考がネガティブにしか働かない。今まで愛剣が傷つくなんて事が無かったからか、こんなこと考えた事も無かった。そして、考え出すと止まらない。元々俺が一人語をしていた所為もあってか、話が途切れると一気に空気が重くなったような気がする。
 

 「素敵ですね」
 

 そんな思考と雰囲気の悪化に歯止めをかけるように白銀の剣は言った。
 

 「剣に亀裂が入っただけでそんなにも苦しめると言う事は、それだけこの剣に愛情を注いでいたと言う事でしょう。それはとても素敵な事だと思います。羨ましいくらいです」
 

 「そりゃ・・・・・・物心つく前から傍にあったからなぁ、家族のような物だよ。でもそれとこれとじゃ別物だろう」
 

 遠い目をしてコイツと一緒に居た日々を思い返す。初めてコイツが危険のものだと知ったのはいつだっただろう、確かこの鋭い刃で自分の頬を切ったんだったな。
 

 この剣は本当に物心つく前からの俺の傍にあった。誰が、いつ、なんのために持たせたのかはわからないが、ずっと俺の傍にあったものだ。傍にあったからと言って剣術の訓練をしたわけではなく、本当に傍に置いておいただけで、アクセサリーの一種として見ていた面がある。
 

 本気で剣術を始めたのは十四の頃で、何百回もサボった末、その一年後に旅に出た。その後も剣術の訓練など積まず、剣の切れ味で力押しをして今まで生きてきたようなものだ。愛剣がコイツじゃなければ、俺は今頃夜空に浮かぶお星様になっていただろう。だからコイツには感謝しているし、愛情とも友情ともつかない親近感を持っている。名前までつけて愛でているくらいだ。
 

 だが、それは結局俺が一方的に思っている事で、愛剣がどう俺を捕らえているかは別だ。
 

 「この剣も貴方の事をとても慕っています」
 

 「何でそんな事がわかるんだ?」
 

 平然と言う白銀の剣に、俺は怪訝な視線を向けた。
 

 「本当にご存じないのですね。有機物だろうと無機物だろうと、必ず物には精霊が宿っているのです。本当に力の小さい精霊のため人間とは対話できませんが、私なら言葉を聞くくらいなら出来ます。この剣の精霊は貴方を守れてよかったと喜んでいましたよ」
 

 何故か嬉しそうに話す白銀の剣。その話を信じていいものか迷ったが、昔それと似たような話を聞いたのを思い出した。
 

 『何者にも愛を与えなさい。例えそれが筆であろうと人形であろうと、必ず答えてくれるでしょう。万物全てに命があるのだから』と言う、教会の神父に聞いた言葉だ。ちなみにあのヘラヘラ神父とは違う神父のありがたいお言葉である。
 

 この話が本当なのだとすると、武具の供養も鍛冶屋のインチキ金儲けではないと言う事が証明される。完全に信じる事は難しいが、半分くらいなら信じてやってもいいかもしれない。愛剣のためにも俺自身のためにも。
 

 「そうか、そうだといいな・・・・・・」
 

 「はい」
 

 ほんの少し顔を綻ばせながら愛剣を撫でる、ほんの一瞬だが愛剣が暖かく感じたのは気のせいだろうか。
 

 気が付くと、やけに和やかな雰囲気に包まれていた。
 

 「はっ!?」
 

 これはまずい、俺は白銀の剣にだいぶ好印象を持ってしまった。
 

 きっとこれは白銀の剣の策略なんだろう、口から出任せを言い、俺の心象を良くしようという巧みな技なのだ。俺はまんまとその罠に嵌り、白銀の剣をイイヤツだと思い込んでしまうところだった。危なかった。
 

 「いいか、何だろうと俺はお前を近くに置いておく訳にはいかないんだ」
 

 「はい、分かっています」
 

 厳しい口調にやはり平然と答える白銀の剣。
 

 「では、せめて次の主人が見つかるまでの間だけでも主人になっては貰えませんか?」
 

 人間ならきっと上目遣いで見ているんだろうなと思わせる声。
 

 「う・・・・・・むぅ、次の主人が見つかるまでなら・・・・・・」
 

 一瞬迷ったが、さっさと次の主人を見つけてやればいいだけだと、渋々了承する。決して、ちょっと可愛いかもとか思ったわけじゃない。
 

 それに、愛剣がこんな状態な今、俺は自らを守る手段が無いのだ。切れ味が多少落ちようと剣は剣、あるに越したことは無い。
 

 「ありがとうございます、マスター」
 

 白銀の剣は安堵したように礼を言った。そして、俺を主人と認識した。嫌な気分ではない。ただ、どんな危険が待っているのかが恐ろしい。危害が無いのであれば、俺は一生傍に置いてやっただろう。
 

 念のためにと、腰に剣を差せる箇所を三つにして置いてよかったと思いながら、愛剣の隣に差してやる。
 

 「んでさ、お前、名前はあるのか?」
 

 「名前ですか? ・・・・・・いえ、ありません」
 

 ふと気になった事を聞くと、白銀の剣は妙な間を空けて答えた。
 

 これから先、ほんの少しの間とは言え、ずっと白銀の剣と呼ぶのはとても不便だ。この際だから俺がつけてやろうと、頭をフル回転させる。
 

 白銀の剣・・・・・・しろくぎんいろ・・・・・・しろぎん・・・・・・。
 

 「うん、じゃあお前の名前はシギだ」
 

 「安易な発想ですが、いい名前ですね」
 

 俺の天才的なネーミングセンスで生まれた新たな名前、シギ。シギ自身も悪いとは思っていないようだった。新たに増えた旅のお仲間に酒でも奢ってやりたい気分だが、コイツは飲食を行いそうに無い。
 

 なんだかんだ言って、会話の通じる仲間が出来るのは嬉しかった。愛剣の中にいる精霊に話をかけて見ても返答など無かったし、森の動物さん達に声をかけるようになったら人間として何かが壊れてしまいそうだったからだ。
 

 「シギ、今更だけど、何で俺がこうして生きているか教えてくれ」
 

 「はい、マスター」
 

 やっぱり悪い気分じゃない。
 

 「マスターが気絶をした直後、ブラックガーゴイルの群れは西の空へと飛んでいきました。その後、燃え続ける森からはあそこに居る女性が連れ出してくれたのです。合計一時間三十七分マスターは気を失っていました」
 

 俺の知りたいことを全て簡潔に述べてくれたシギ、気絶時間までハッキリと言ってくれやがった。
 

 周りを見渡して他に女性が居ないか確認するが、やっぱり誰も居ないため、俺を運んでくれた女性というのは、いつの間にか焚火で身体を温めている大犯罪者の女の子だろう。
 

 やっぱり人情の欠片くらいなら残っていたんだなと感心しつつも、どうやって礼を言おうか迷っていた。向こうは礼など期待していないのかもしれないが、シギの鞘の事も兼ね一応言っておいた方がいいだろう。
 

 そっと、ゆっくりと横歩きで不自然の無いように女の子に近づいていき、声をかける。
 

 「えー・・・・・・こほん」
 

 女の子は振り向かない。
 

 「ええっと、その、ありがとうございました」
 

 ちょっと照れながらも礼を言ってみるが、やっぱり女の子は振り向かなかった。
 

 元々旅なんてしていると人と会う機会は少なく、会話をあまりしない上、女となんか一ヶ月に一言話せればラッキーな方だ。しかも礼なんて半年ほど言っていない。
 

 そんな俺が勇気を雑巾を絞るように振り絞って発した言葉をこの女、無視しやがった。ちょっと悔しく、悲しい。
 

 とはいえ、半分以上予想していたことなので、すっぱりと諦めはついた。
 

 女の子の隣に座ると嫌がられそうなので―――俺が緊張すると言う理由もある―――女の子の視界にあまり入りそうに無い斜め前方に座り込む。焚火が暖かい。
 

 そういえば、女の子を見てから何かを忘れている気がしてならなかった。でも、それが何だったか思い出せないので、とりあえず周りを見渡してヒントとなるような物を見つけようとする。
 

 ふと、黒い塊が目に入る。アレはどう見てもチビドラゴンだが、上半身・・・・・・頭から身体半分が何かに埋まっている。何に顔を埋めているのかと目を凝らすと、それは茶色の袋だった。見覚えがあった。俺の道具袋だ。
 

 「だぁあああああ!?」
 

 大声を上げながらチビドラゴンに駆け寄り道具袋から引きずり出す。パンの欠片をいくつも付けながら口を動かしている愛らしいその顔はクエスチョンマークをいくつも浮かべていた。自分が何かしたのかと、そう言っていた。
 

 そんなチビドラゴンを放って置いて、道具袋の中身を確認する。
 

 「あああああ!? パンが! 水が! 十日は持たすはずだった食糧があああああッ!? ・・・・・・あ!? 地図も無い! 地図は食い物じゃないだろ馬鹿!」
 

 道具袋の中には水筒と地図、あの町の食堂で頂いたパンだけしかなかったのだが、コイツは全部を食ってしまっていた。水筒なんて、木で出来ていたとは言え、噛み砕いてしまっていたのだ。
 

 『キュイ?』と可愛らしく首を傾げるチビドラゴンに掴みかかる。
 

 「吐け! 今すぐ吐き出せ!! せめて地図だけでも吐き出してください! アレが無いと、この広い世界で迷子になってしまいます!!」
 

 「キュ・・・・・・クキュウ・・・・・・ゴクン」
 

 首を絞められ苦しそうにしながらも、このドラゴン、飲み込みやがった。
 

 自然と腕から力が抜け、チビドラゴンは開放される。うまく着地したチビドラゴンは慌てて女の子の後ろに隠れる。
 

 この広い世界で地図をなくすと言うことはとても大変な事なのだ。今まで朝日で方角を確認し、地図で町から町を渡り歩いて居たのだが、地図が無ければ方角が確認できても何処に行けば分からない。
 

 魔物、空腹、疲労と、色々な理由から、いい加減に歩き回って、無事に町に到着できる可能性は限りなく低い。せっかく会話の出来る旅の仲間が出来、これから少しの間だがそれなりに楽しくやっていけるんじゃないかと思ったのに、これだ。やっぱり俺は呪われていたりするんじゃないのか?
 

 「マスター」
 

 「ん、なんだ? お前の次の主人は何とかして探してやるから心配するな・・・・・・人間じゃないかもしれないけど」

 

 人の形をしたモンスターがシギを振り回している所を想像する。

 

 「いえ、そんなに大切な物ならば、あの女性もそれを持っているのではないでしょうか?」
 

 あの女性と言うのは女の子を指しているのだろう。そういえばそうだ、女の子だってデタラメに歩いて町から町へ窃盗を繰り返しているわけではないだろう。きっと大都市を巡り歩いているはずだ。そのためには当然、地図が必要なはずである。
 

 でも、チビドラゴンに泣き付かれちょっとこちらを睨んだあの女の子が素直に地図を貸してくれるだろうか?
 

 貸してくれるわけが無い、だってアレは女の子にとっても命綱のはずだからだ。いや、アレだけの戦闘能力があれば数ヶ月町につけなくても生きていけるか。
 

 何にせよ、俺が遭難しないで済む方法は本当に一つしかなくなってしまった。女の子の機嫌を取って、次の町に着くまで一緒に居させてもらうと言う実に情けない作戦だ。
 

 「・・・・・・よし」
 

 そうと決まればとりあえずやってやろう、仲良くなるのだ。どんな風に声をかければいいだろう。
 

 紳士的に接してみようか気楽に接してみようかと一瞬迷った隙に、俺の行動を先読みしうまく回避するように女の子は立ち上がり、荷物を持って歩き出した。その背中に黙ってついて行くチビドラゴン、もう行くようだ。
 

 「また山火事を起こす気かアイツは・・・・・・」
 

 愚痴をこぼしながらも女の子が放置して行った焚火を蹴飛ばしバラバラにしたり踏んづけたりして火を消そうと頑張ってみるが、濛々と燃えているこの火を足だけで消すのは時間がかかりそうだ。
 

 「ああッもうッ! まだ半年も着てないズボンが焦げる! 銅貨七枚もしたのにッ!」
 

 尚も踏み続けると、だんだんと火力は弱くなっていった。まぁ、これだけ頑張ったしもういいだろうと、まだ熱の残る薪を放置し、だんだん見えなくなって行く背中を走って追いかけた。せめてもの救いは焚火の下が土だったと言う事だろう、山火事になるかならないかは運任せだ。
 

 「それで、何処に行けばいいのかわかるのか?」
 

 女の子に追いつくと同時に声をかけるが、その問いに答えが帰ってくる事は無かった。でも、俺の追行を拒絶はしなかった。
 

 後ろから見ても女の子の傷は目立った。深く切られているのだろう傷がいくつかあり、傷薬を使っていないのか、未だに傷口が塞がる様子も無く、ほんの少しではあるが血が流れ出していた。
 

 歩みも何処と無く不安定なのは、疲労と痛みからだろう。
 

 「俺もあの攻撃を受けてよく生きてたもんだよな」
 

 呟きながら、自分の胸を軽く叩いてみたりジャンプしてみる。やっぱりまだ痛いが、それは生きている証でもある。
 

 たとえ先端が尖っていない丸太だろうが、高速で身体にぶつけられれば、その重みが何倍にも増し、死ぬ。これは誰だろうと知っていることで、それを利用した丸太を使ったトラップも作られている。
 

 ブラックガーゴイルの体重は丸太より軽いだろうが、途轍もない速度で一点に絞った攻撃だったのだ。腕ごと俺の身体を貫通してもおかしくは無かった。シギが間に入っていても、肋骨がバラバラに砕け心臓に刺さっていて当然の攻撃だった。
 

 「私には衝撃を軽減する力がありますから」
 

 なのに、何故俺が生きていたのか。その疑問にはシギが答えてくれた。
 

 「並大抵の攻撃でしたら、ほぼ衝撃を感じず受け止めることが可能です。ですが、あの突きは強力でしたので、多少マスターに流れてしまいました。申し訳ありません」
 

 「いや、別にそんな・・・・・・助かったよ」
 

 シギが居なければ、俺はあの場で死んでいた。謝礼を要求されるいわれはあっても、謝られるいわれは無いはずなのに、シギはとても申し訳無さそうにしている。ちょっと焦る。
 

 「シギは大丈夫だったのか? 受け止められないほどの衝撃だったんだろ?」
 

 「はい、あのくらいの攻撃なら何度でも受けられます。試して見ますか?」
 

 「いや、やめとく」
 

 シギは自信満々に、ちょっとだけ自慢げにそう言ったが、あんな攻撃何度も受けていたら俺の身体が持ちそうにないので、あからさまに嫌そうな顔で拒否しておく。
 

 こんな何でもないやり取りが楽しいと感じられる、やっぱり仲間が居るのはいい事だな。なんて、ちょっとした詩人気分で久しぶりの会話に浸りながら、前に居る女の子とチビドラゴンに目を向ける。
 

 この一人と一匹は先ほどから何の会話もせず、ただただ歩いている。まぁ、モンスターとの会話と言うのも変な話だが、先ほど見たく何らかのコミニュケーションは取れるはずだ。でも、ただただ歩いているだけだった。
 

 何時間歩くかも分からないと言うのに、変わり映えしない森をずっと見続けるのは退屈じゃないのだろうか? 少なくとも、俺はさっき退屈だった。だから思っていることが自然と口に出てしまった、返答が帰ってくることをちょっとだけ期待して。
 

 それでも、女の子の歩幅が俺と二人の時より狭く、ゆっくりと歩いているのは、きっとチビドラゴンを気遣っているからだと思う。何故女の子がチビドラゴンに優しいのかはわからないが、チビドラゴンも女の子には弱いのだと思う。アレだけ強情にドラゴンの傍から離れなかったのに、従順としているのがいい例だ。
 

 それにしても、どうやってチビドラゴンを説得したのだろうか。
 

 「顔にビンタ一発を食らわせていました」
 

 目撃者であるシギが、頼んでも居ないのに語る。
 

 「それほど強くぶった様子も無かったのですが、それだけでドラゴンの子供は大人しくなりました」
 

 まぁそりゃ、女性にビンタをされると肉体的ダメージの何万倍も精神的ダメージの方が大きいだろう。その子が可愛いほどダメージも大きく、女の子ほどの美少女にやられると、俺なんかもう立ち直れないかもしれない。
 

 でも、チビドラゴンが雄か雌かはともかく、女の子を『美人』と捉えるだろうか。高い知能とソレにより生まれる感情を持っているのは先に説明したように明確なのだが、別種族の良し悪しが分かるとも思えない。何か別の理由があると考えた方がいい。例えば、女の子が鬼にも勝る形相でチビドラゴンを睨み付けたとか。
 

 何にしても、ブラックガーゴイルの恐怖にも屈せずドラゴンの傍から動かなかったチビドラゴンが、女の子の説得だか脅迫だかわからない行動で従順としているのは事実で、チビドラゴンが女の子に弱いんじゃないかと言う予測は正解だったようだ。
 

 「マスター、少し明るくなってきましたね」
 

 一瞬、俺がそんなに暗い人間に見えたのかと思ったが、少しではあるが空が青さを取り戻し始めていた。きっと、こっちのことを言っているのだろう。

 

 向かっている方向の空が他よりもやや明るい、東に向かって進んでいると言う事だろうか。だが、俺には進んでいる方向が分かろうと分かるまいと関係なかった。地図が無く、何処へ向かえばいいのか全く分からないのだから。
 

 溜め息をつきながら女の子の様子を伺うが、以前、変わらず歩いている。チビドラゴンも同様だ。
 

 ふと、このままでいいのだろうかという念が生まれてきた。
 

 俺が生き延びるためには次の町に着くまで、せめて誰か人を見つけるまでは女の子に付き纏わなければならない。長ければ一ヶ月、短くとも一週間は女の子にお世話になる事だろう。
 

 別に、良き人間関係を築きたいなどとは思っていない。まぁ、さっきまでは思っていたが、女の子があそこまで拒絶しているのに、無理矢理そういう関係を築こうとするのは如何なものだろう。でも、せめて、普通に会話出来るくらいには仲良くなっておきたい。朝起きると誰も居ないなんて事になっていない様にだ。
 

 そこで俺は、早足で女の子の隣まで追いつき、幾度か目のチャレンジをする事にした。
 

 「いやぁ、いい天気になってきましたね」
 

 まだまだ灰色の空を見上げて、出来るだけ気楽な声で繋げやすいだろう話題を出す。
 

 「昨日は雪国見たいに寒かったんですけどね、あの山火事のおかげで風邪をひかずに済みましたよ」
 

 はははと笑ってみるが、女の子はやっぱり無反応。何だか怒ったような雰囲気を出しているのは、皮肉に聞こえてしまったからだろうか。慌てて話題を変える。
 

 「ああ、そういえば聞いてください。この喋る剣なんですけどね、シギって名前にしましたよ。白銀の剣だからシギ! 悪くないと思いませんか?」
 

 無反応。
 

 「それでですね、俺の愛剣の事なんですが、見ての通りボロボロです。こんな事今まで無かったので、腕のいい鍛冶師を知らないんですよね。オススメのお店とかありますでしょうか?」
 

 無反応。
 

 「ええっと・・・・・・あ、ほらアレ! あの花って食べれるんですよ。ちょっと目眩はしますけど、味付けさえしっかりすれば美味しいものです」
 

 話題が無くなりかけたので食った事のある紅い花を指差した。それでも、女の子は無反応。こうなると、俺の話を聞いてくれているのかさえわからなくなる。
 

 本当に話題が無くなって来たので、シギからも何か言ってやって欲しい。
 

 「・・・・・・」
 

 シギのヤツ、無視しやがった。こういう時こそ会話の出来る剣の出番だろうに。やっぱり、剣だろうとこういう子は苦手なのだろうか。
 

 辺りをキョロキョロ見渡し、何か話題に出来るものが無いかと探すが、特に目立ったものが無い。仕方ない、聞くも語るもくたくたになると有名な愛剣の自慢話でもしてやろう。本当に喉が痛くなるから親しい人にしかしないのだが、今回は特別だ。
 

 「いやぁ、貴方も気になっているでしょうが、この見るからに美しい愛―――」
 

 「どうして」
 

 上機嫌に語り出した俺の言葉を遮り、女の子は足を止め、振り向き俺の目を見て言った。
 

 「どうして助けたの?」
 

 全く感情が読めない無表情。その澄んだ瞳は何かを求めるように俺を捉えていた。
 

 怖かった。
 

 悪い事をしたようで、怖かった。
 

 俺はきっと、この子の期待には答えられない。何を求めているのかわからないが、それ自体、単なる俺の妄想なのかもしれないが、きっと俺はこの子を傷つける回答しか持っていない。この問いに、俺は答えられない。
 

 俺がこの子を助けた理由なんて、そんなのは無い。あるとすれば、それは見返りを求めて助けてやっただけだ。金、財宝、身体、何を求めて助けてやったのか自分でも良くわかっていないが、それでも見返りを求めたというのは確かだ。
 

 悪いか? それは悪い事か? 悪くないだろう?
 

 悪くない。そう分かっていても、それは言えない。
 

 女の子の期待に背きたくないから。そう言えば良く聞こえるが、実際はそんなに良い物ではなく、単に見栄を張りたいだけなのだ。
 

 俺は優しい人間だから、身体が勝手に動いてしまっただけなんだ。とか、思わせておきたいだけなのだ。
 

 でも、聞かれた以上、答えなくてはいけない。
 

 何と答えればいいのだろう。
 

 「あー・・・・・・」
 

 呟き、視線を逸らしながら必死に頭を働かせる。
 

 やっぱり、嘘をついてでも良い人を思わせる発言をした方がいいのだろうか。
 

 死に迫っている君を見捨てては置けなかった。とか、言った方がいいのだろうか。いや、ダメだ、そんな事言ったら自分で鳥肌が立つ。
 

 だからと言って、正直に『見返りを求めました』なんて言うのか? そんな事言ったら、後頭部をあのでっかい杖で殴られる。そして、気絶した俺はそのまま見捨てられるに決まってる。
 

 じゃあどうすればいいんだ? どうすれば、この人生最大の危機を乗り切れるんだ?
 

 必死に巧妙な回答を見出そうとしたその時、視界に一筋の希望の光が見えた。
 

 「おお! あれは!」
 

 俺はわざとらしく大声をあげながら、そこを指差した。
 

 女の子が振り向いたその方向には、やけに紅い光が差していた。山火事現場に戻ってきたのかもと思ったが、きっと、あれは森の出口だ。そう思いたい。
 

 俺は逃げるように走った。
 

 途中、石につまずいたり、木の枝に顔をぶん殴られたりもしたが、それでも俺は走った。
 

 そして、森を抜けた。
 

 「・・・・・・おー」
 

 抜けた先は、絶景だった。
 

 何も、何も無いただの草原を、風が吹きぬけ、多い茂った立派な草を揺らし、その音色をここまで届けてくれる。山の間から見える太陽は、まだ半分も見えないのに、先ほどまで灰色だった空と緑豊かな大地を紅く照らしていた。
 

 俺までこの景色に溶け込んでしまいそうな、溶け込んでしまいたいような、そんな光景を少し高い丘から眺めている。まだ冷たい空気が肌を撫でるのも心地よい。
 

 そういえば、この辺は古来から戦争などの被害が無く、豊かな事で有名だった。
 

 「綺麗ですね・・・・・・」
 

 感動したようなシギの声に、『何でさっき助けなかったんだ』と怒鳴る気も失せた。
 

 モンスター狩りと戦争が原因で緑が減っていくこの世界で、この辺りはモンスターが蔓延っているため、住民が少なく、緑が豊かで空気がいい。皮肉な事に、人間は意識しなければ草木を殺してしまうが、動物やモンスターは逆に緑を育むと言われている。
 

 しばらくその光景を見続けていると、女の子が追いつき、隣で止まった。感動で涙しているのだろうと表情を伺うが、やっぱり無表情で、更に、何処かまた怒ったような雰囲気を出していた。さっきの話を曖昧に終わらせてしまったからだろう。
 

 何故だか、この景色を見ていると、何でも許してもらえるような気がしてくる。開放的と言うのはこういうことなんだろうか。
 

 「いやな、実は君を助けたのは見返りを求めたからなんだ」
 

 そして、口が滑った。
 

 「だって君、性格にはちょっと難有りだけど、強いし可愛いし、今助けておけば将来色々と得するんじゃないかと思ってさ。別に変な下心があるわけじゃないぞ。いや、ちょっとはあったかもしれないけど、まぁ、何でもいいから得出来るだろうと思ったわけだ」
 

 油を塗ったようによく滑る口だった。
 

 「でも実際君は何もくれないんだろうな、だってケチそうだし。人間関係も無さそうだしな、美人を紹介してもらえるわけでも無さそうだ。全く、何でこんなヤツを命張ってまで助けてしまったんだろうと今では後悔し―――どわッ!」
 

 こんなロマンテックな雰囲気をぶち壊すように、絶景に惹きこまれながら爽やかに語る俺の脇腹に、女の子は思いっきりローキックをかました。大した威力はない一撃だったが、バランスを崩すには十分の衝撃で、倒れそうになりながらもなんとか体勢を立て直した。
 

 その一撃で、俺は冷静になる。
 

 さっき俺は何と言った? なんだか物凄くまずいことを言ってなかったか? 下手すればこれ、殺されるんじゃないか?
 

 冷や汗を滝に様に流しながら女の子に向き直り、自分の過ちを弁解しようとしたが、女の子の顔を見た瞬間それが無駄だと言う事がわかった。
 

 「そう言うと思った」
 

 そう呟いた女の子は、妙にスッキリしたような、嬉しそうな顔をして、俺が見ていた景色を見ていたからだ。
 

 朝焼けに照らされながら風になびく銀色の髪はやっぱり美しく、初めて見たその微笑みに良く似合った。ボロボロの黒ローブから覗く傷ついた白い肌より、ずっとその顔に惹き付けられ、思わず見惚れてしまった自分が情けない。
 

 まるで俺がそう言うとわかっていたような、そんな口振りだったが、その口調は『自分の予測が当たってよかった』と、何故かそう安堵したような物だった。なんだか試されていたような気もしてくる。
 

 とにかく、女の子は怒っていなかった。俺は女の子の期待に答えられたかどうかは別として、怒らせるような回答はしなかったようだ。
 

 「ああ、俺はそういうヤツだ。ついでに言うと、次の町までは一緒に居させてもらうぞ。そのチビドラゴンに地図を食われて右も左もわからん」
 

 威張って言ってやったが、女の子はこっちを見ない。ただただ朝焼けを見ていた。
 

 今までに無い雰囲気に、俺は次なる行動を起こせずにいた。どうすればいいのかわからないのだ。
 

 「あー・・・・・・っと、そうだ、そのチビドラゴンには名前をつけてやったのか?」
 

 「チド」
 

 どうせ返答は無いだろうと思いながらも、何か話さないとこの空気に押しつぶされてしまいそうだったから、女の子に寄り添うチビドラゴンを指差すと、女の子は朝焼けを見たまま考える素振りも見せずに即答した。ビックリだ。
 

 チドか、ネーミングセンスをちょっと疑うが、分かりやすくて良い名前だと思う。でも、チドか、やっぱり微妙な名前だ。
 

 改名を申請してやるべきか迷ったが、せっかく女の子がつけてやった名前だし、チドも満更では無さそうに『キュウ!』と鳴いていたため、俺は黙認した。
 

 「ついでだから教えておくが、俺はファズって言うんだ。よろしくな」
 

 流れに乗って、さり気なく俺の名前も教えておくが、今度は流石に返事が無い。
 

 「・・・・・・メリル」
 

 無いと思ったが、予想外にも、女の子はそう呟いた。
 

 「ああ、そうか、メリル・・・・・・メリルね、いい名前だよ」
 

 悉く、今までに無い振る舞いをする女の子―――メリルに、俺は慌てを隠せない。何だかんだ言っても、俺は女性が苦手だった。何を話せば良いのか分からないのだ。黙ったままの方が楽だったかもしれない。
 

 そう思ってしまったからとは言わないが、またメリルは黙り込んだ。というか、自分からは何も話そうとはしないようだ。俺の言葉に『メンドクサイが答えてやるか』くらいの気持ちなのかもしれない。
 

 それでも、俺はメリルによほどの好印象を与えたのだろう。そうでなければ、俺に名前を教えてくれるはずも無い。でも、メリルはそれでいいのだろうか。俺が見返りを求めて助けてやったと自白した、そんな不純な動機で助けられても、印象は良くなるものだろうか。
 

 きっとこれは俺がいくら考えてもわからないのだろう。メリルは外見から内心まで、何もかも普通では無いから。そんなメリルの事を、普通の男である俺がわかってやれるわけも無い。
 

 「・・・・・・やっぱり」
 

 メリルがちょっと考え込んだ後に呟き、振り向いた。
 

 「傷薬、貰う」
 

 ほらみろ、また訳の分からない事を言い出した。
 

 痛いなら最初から痛いと言っておけばよかったんだ。当時は妙に感傷的で、可哀想とか痛そうとか思っていたが、冷静になった現在はそんな事を思っていない。誰か分けてやるものか、これは本当に高級品なんだ、冗談じゃない。
 

 心底そう思ったが、俺の目を直視するメリルの何を考えているのか分からない怖いほど透き通ったその瞳に、逆らえるはずも無かった。
 

 「・・・・・・ん、わかった、わかったよ。でも俺が塗るぞ、これは本当に高いんだからな」
 

 やっぱり傷薬の事は内緒にしておけばよかったと思いながらも、俺はポケットから取り出した小瓶に入った傷薬を、両手を突き出してくるメリルの傷に余すことなく塗ってやった。

 

 

 

 

 

 

 

 メリルはきっと、人生全てを一人で楽しむタイプだ。一人で食事を取りその味を堪能したり、一人で音楽鑑賞をして一人で感動し一人で涙するのだ。きっとそんなタイプの人間だ。

 

 それが悪いとは言わない。ただ、俺とは合いそうに無い。

 

 なにも俺が、まずい食事でも皆で取れば美味しく感じたり、どんな雑音でも皆で鑑賞すればロックのように聞こえるような、友達とさえ居れれば何でも楽しいと感じるほど人間愛に溢れているわけでもない。

 

 皆で分かち合える喜びなら分かち合えば良いし、助け合える事があるなら助け合えばいい、ただそう思っているだけだ。その方が楽しくて、楽だと思っているから。

 

 でも、きっと、この考えは、俺が心身ともに弱いから生まれてくる物なのだ。一人で生きていくのが困難な、弱い人間にのみ生まれてくる感情なのだ。 

 

 メリルはとても強いのだろう。だから、一人でも生きていける。一人で生きていった方が楽で楽しく感じる。

 

 俺は俺の考えをメリルに押し付けるつもりは毛ほどもないし、メリルのように強くなろうとも思わない。

 

 ただ、俺は俺のためにメリルに歩み寄ってみようと思う。

 

 俺は一人では生きていけないから、一人では楽しくないから。

 

 俺は俺のためにメリルと仲良くなって見せる。

 

 

 

 そして、俺は忘れていた。

 何故メリルが大犯罪者と呼ばれているのか、その理由を。

 その罪状を。

 

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