一斉に鳥が羽ばたき、動物が身を隠し、低級モンスターが逃げて行く。そして俺も、生物的直感から危機感をこの身で感じていた。恐らくそれは、動きを止めた女の子も、急に怯えだしたチビドラゴンも感じているだろう。
 

 ―――逃げたい。女の子やチビドラゴンの存在を無視して、自分一人だけでも逃げたい。でも、きっとそれは叶わない。だって、小さくとも力強い足音がもうすぐそこまで来ているから。
 

 ゾクゾクと悪感が背筋に走り、自然と視線が森の奥へと向く。ポキパキと枝を折りながら森の闇からゆっくりと現れたそいつは、女の子の肩書きだけの外見とは違い、本当に悪魔のような顔をしていた。
 

 二本足で立って現れたそいつの体長は俺より一回り大きいくらい、指だか爪だかわからない手の先は鋭く尖っており、手を洗う習慣が無いのか乾いた血がべっとりと張り付いていた。背中にはコウモリの翼があり、裂けた口からは牙が覗き、頭には小さな角が二本生えている。骨に皮が張り付いているだけのような細身と言うには細すぎる身体、その真っ黒い全身に、当然服など着ていない典型的な悪魔にも似たそいつは、紛れも無いモンスターだ。
 

 確かこいつは『ブラックガーゴイル』という高級モンスター。一日に二種類の高級モンスターと出会う日が来るなんて思わなかった。運が良いのか悪いのかと問われれば、とんでもなく悪い。二回連続でタンスの角に足の小指をぶつけるほど悪い。
 

 ただ、戦闘能力は圧倒的にドラゴンに劣る。ブラックガーゴイルがドラゴンを殺したという可能性は低そうだ。とはいえ、高級モンスターは高級モンスター、当然俺なんかが太刀打ちできる相手じゃない。一分もあればミンチ状態だろう。
 

 虚空を見て、ただただ前進していたブラックガーゴイルが不意に俺を見た。ビクンと身体が反応する。
 

 ―――殺されるッ!
 

 そう思った瞬間、ブラックガーゴイルは俺から視線を外した。ホッと一息ついたのも束の間、今度は女の子に視線を向ける。女の子は冷静に杖を構えるが、又もブラックガーゴイルは視線を外す。
 

 そして、チビドラゴンに視線を向けた瞬間、全く表情を変えなかったブラックガーゴイルがニヤリと笑ったような気がした―――刹那、ブラックガーゴイルがチビドラゴンに向けて跳んだ。
 

 踏み出した一歩が途轍もなく長い、羽ばたかせている翼で滞空時間を維持しているのだろう。チビドラゴンは威嚇をする事も無く、ただ怯えている。攻撃を避けようとする意思すら見られない。そんなチビドラゴンを見兼ねたのか、女の子が呪文の詠唱を開始した。間に合うわけが無いと思っていたが、牽制用のお手軽呪文だったのか、数秒で大きな氷の塊がブラックガーゴイルの目の前に落ちた。
 

 「キシャアアアアア!!」
 

 「・・・・・・ッく!」
 

 耳の奥がキーンとなるような奇声を発し、女の子を睨みつけるブラックガーゴイル。その奇声に思わず耳を塞ぐ俺だが、一般モンスターハンターが数十人で取り囲んでも勝てるかどうかわからない高級モンスターの威嚇を、女の子は全く気にしていないようで、その隙を見て怯えるチビドラゴンへと走り、抱きかかえた。
 

 金ヅルは手放さないと言う事なのだろうか? とりあえず、俺はこの場から離れた方が良いのだろう。女の子を見捨てて逃げようと言う気が全く無いと言うと、泉の女神も斧を持って帰ってしまうだろうが、少なくとも表面感情ではそんな事思っていないはずだ。
 

 この子がどんなに優秀な魔法使いだろうが、高級モンスターに勝てる確立はとても低い。しかも、先の戦闘で実証されたように、完全なる足手まといの俺が近くに居れば、更に勝率が落ちるだろう。俺が勝利に助力する事が出来るとすれば、草叢に身を隠すなりしてブラックガーゴイルの標的から外れておく事だけだ。
 

 正面数メートル先に居る女の子とチビドラゴン、一人と一匹が居る地点からやや右方向にいるブラックガーゴイル。もっとも安全で確実な逃亡方法は振り返り走り去ることである。俺はソレを実行した―――しようとした。
 

 「グルルルルルル」
 

 だが、それは叶わなかった。いつの間にか真後ろに無数の頭があったからだ。
 

 ふわふわでふさふさな体毛は、この寒い夜に打って付けで、今すぐダイブしたい。だが、そんなことをしたらきっと、ふかふかな体毛に到達する前に、その大きな口から吐き出される火の玉で丸焼きにされてしまうだろう。いくら寒くともそれはイヤだ。
 

 更に、仲間を殺されたからか、随分と探し回らせたからか、この大犬達は随分と機嫌が悪そうなのだ。高級モンスターから逃れるだけでも困難なのに、そのうえ中級モンスターの群れに追いつかれてしまうとは・・・・・・本当に最悪な状況である。
 

 とにかく一人じゃ危ないと、女の子の元へと走る。大犬がその無防備な後姿を攻撃しなかったのは奇跡に近い。女の子の背中に隠れながら、何故俺を攻撃しなかったのかと、大犬達の様子を窺う。
 

 大犬達はどうやら、よわっちい俺など眼中に無いらしく、先ほど仲間を全滅させた女の子と、ブラックガーゴイルを睨んでいる。ブラックガーゴイルも女の子だけに集中せず、チラチラと大いにたちにも注意を向けていた。
 

 この様子から、ブラックガーゴイルと大犬は同じ群れの仲間でない事が明らかになり、もしかすると脱出できるかもしれないと、新たに希望が生まれた。
 

 「・・・・・・」
 

 「・・・・・・」
 

 「グルルルルルル」
 

 無言で、ただブラックガーゴイルだけを睨んでいる女の子。だが、ちゃんと大犬の行動も把握しているようで、大犬の一匹が一歩踏み出すと、すぐさま大犬に視線を移す。
 

 同じく無言で、女の子と大犬に交互に視線を向けるブラックガーゴイル。大犬一匹なら簡単に始末できたのだろうが、数が居る分大犬達の存在を無視することは出来ないようだ。
 

 唯一喉を鳴らし威嚇を続ける大犬。個々の能力は二人に劣るだろうが、集団という所が又厄介で、先ほどのように巧妙な策でも練られれば、二人を上回るかもしれない。
 

 続く膠着状態、鳥の鳴き声さえせず、ただ大犬の単調な喉を鳴らす音しか聞こえない静寂に近い状態の中、冷たい風が汗で濡れた服を更に冷やし、体温を奪っていくのを感じる。
 

 ・・・・・・あれれ? もしかすると、これは逃げれるんじゃないか?
 

 この三角状態なら、やはり振り返って走り去ってしまえば誰も追いつけないのではないか? 今は膠着状態だから、今なら、今なら逃げれるんじゃないか? 走り去ってしまおうか? という、この考えは楽観的すぎる発想。膠着状態は誰も動かないから膠着状態と言う訳で、俺が動けば膠着状態が解け全員動き出す可能性もある。でも、ずっとこの状態が続けば一番有利なのは大犬で、一番不利なのは俺達だ。大犬にはまだ群れの助けがある、いくらブラックガーゴイルと言えど、群れ全体を相手にするのは難しいだろう。だが、ブラックガーゴイルには翼がある、大犬の群れが助けに来た場合飛んで逃げればいいのだ。空なら敵の数も激減するだろうし、空中戦ならばブラックガーゴイルは高級モンスターの中でも上位の戦闘能力を誇るのだから。それに比べて俺達は飛べない、地上からの突進と空からの強襲とを同時に受けなければならないのだ。勝利はもちろん、逃げる事すら出来ないだろう。なら、女の子には悪いが今逃げるべきではないか? 逃げるべきだ。
 

 ざっと数分思い悩んだ結果、『逃げるべき』と結論付けられた。ゴクリと唾液を飲み込みゆっくり、ゆっくりと片足を後ろに下げる。
 

 ここで、何故か教会のへらへら神父を思い出した。
 

 『罪人は必ず神に罰せられるでしょう。特に、友達や仲間は大事になさって下さい。決して裏切りなどなさらないよう、信じておりますよ』
 

 そんなセリフを思い出していると、コツンと踵に硬い何かがぶつかり、バランスを崩した。そしてそのまま―――
 

 「―――どわっ!?」
 

 こけた。
 

 ドスンという壮大な音と共に腰に激痛。丁度腰の辺りの地面が出っ張っており、全体重をもって打ち付けてしまったようだ、その痛みはチビドラゴンの噛み付き攻撃に匹敵する。誰かに話したら『大した事無い』と笑われるだろうがそれは違う、チビドラゴンの噛み付きが本当に痛いのだ。
 

 「ッく・・・・・・ぅう・・・・・・」
 

 半泣きの顔を隠す事も兼ね、うずくまりながら腰をさすり痛みが引くのをただ待つ。だいぶ痛みが引いてきた所で、俺に天罰を下した硬い何かに目をやる。そいつはもう、すっかり見慣れた拳ほどの大きさの真っ赤に染まった石。コイツが神の代行者だとは思ってなかった。そういえば、不幸の源は全部こいつにあったような気もする。
 

 ふと視線に気づき顔を上げてみると、女の子がとても冷たい表情で俺を見ていた。無表情でなく、目を細めあからさまに怒っているとわかる表情だ。とても、とても怖い。
 

 「はは・・・・・・ははは」
 

 とりあえず笑って誤魔化そうと試みたが、世の中そう甘くなく女の子の冷たい視線が外れる事は無かった。
 

 「・・・・・・コホン」
 

 軽く咳払いをして立ち上がり、俺の勇敢なる行動で戦況がどう変化したかを確認する。結果から言うと、あまり変わっていなかった。
 

 ブラックガーゴイルは相変わらず女の子と大犬を交互に見て、女の子が俺を凝視しているのを確認すると、大犬に視線を送る時間を増やした。だが、ちゃんと女の子の事もちらちらと見ている。大犬も変わらず、時折喉を鳴らし、均等の数で女の子とブラックガーゴイルを監視を確認している。本当に誰も俺を意識していないのかもしれない。
 

 「うん、相手に隙を作ろうと頑張ってみたがダメだったようだ。どうしようか」
 

 別に逃げようとしたわけじゃない、ただ戦況を変化させようとしただけだ。と、胸を張ってアピールしてみるが、自分でやっていてちょっと見苦しかった。何より、更に女の子の視線が冷たくなった事がそれを証明している。
 

 「持って」
 

 冷凍ビームを出しながら、女の子がチビドラゴンと荷物袋を俺に渡そうとする。チビドラゴンに噛み付かれることを予想しながらも、この視線に逆らう事など出来ず、恐る恐る手を伸ばすが、チビドラゴンは予想外に大人しかった。
 

 小刻みに震えているチビドラゴンは、こういってはなんだが、可愛い。ずっとこのままで居てもらっても構わない。だが、何故こんなにもブラックガーゴイルを恐れるのかが俺にはわからなかった。やはり、それはモンスターの第六感というやつだろうか?
 

 「わ・・・・・・っと」
 

 チビドラゴンを受け取った後、荷物袋も預けられるが、予想外の重さに落としそうになる。何とか持ち直せたが、この重さは異常だ。そういえば本とか入れていたな、あれが原因だろうか?
 

 「落とすな」
 

 「はい」
 

 凍り付いてもおかしくない視線。落とさなくてよかった、落としたら何をされていたかわからない。本当にカチンコチンにされたかもしれない。
 

 ゾッとする想像をしているうちに、女の子が行動に出た、なにやら呪文を唱え始めたのだ。ブラックガーゴイルも大犬も、それに気がつかないわけが無い。ブラックガーゴイルが女の子と距離をとるのに対し、大犬は詠唱が終わる前に片を付けようと言うのか、女の子に突進を開始した。
 

 女の子は攻撃を避ける様子も見せず、詠唱に集中している。大犬が高く跳び、必殺の一撃を女の子に叩き込もうとした瞬間、女の子の詠唱が完了した。女の子が大きく杖を振ると、杖の先から猛火が噴き出し、大犬ごと辺り一面を焼く。
 

 大犬は火に強い。先の出来事から、それは当然女の子も知っているだろうが、それでも女の子は火の魔法を使った。何か策があるのだろうが、杖から噴出した猛火を直接食らったはずの大犬は全く涼しい顔をしている。何故、あの、もふもふな毛が燃えずに炎を弾き返しているのか、不思議でならない。効果と言えば、業火の圧力で大犬の動きが止まった事くらいだ。
 

 猛火は地面を焼き、茂みを焼き、木を焼いた。草木の絶えないこの森で、炎は炎を延々と生み続け、あっという間に辺り一面火の海と化した。何の植物が焼けたのか、嫌な臭いが鼻をつく。後に、この惨状を目の当たりにした、自然保護協会や動物愛護団体はどんな顔をするだろうか。
 

 体勢を立て直した大犬が又突進を繰り出そうとした時、一本の炎上する大木が丁度女の子と大犬の間に倒れた。狙ってやったのか、偶然なのかはわからないが、これで少しの間だろうが大犬達の注意を逸らせる事ができる。
 

 「逃げる」
 

 「は? え?」
 

 女の子が振り返ると同時にそう言うと、そのまま走り出した。思いもよらぬ行動に一瞬困惑するが、一切振り返らずに駆ける女の子の後姿で目が覚める。とにかく、ついて行かなければ命は無い。
 

 女の子の背中に向けて全力疾走しようとしたその時、
 

 「キュウ!」
 

 今まで腕の中で震えていたチビドラゴンが飛び出した。

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