五歳にも満たなかったあの頃、俺は新しい生活に慣れないで居た。周りは皆優しい人達ばかりだったが、それが逆に怖かった。何故この人達が優しいのか、何故こんなにも俺に親切にしてくれるのか、何か裏がありそうで、いつか裏切られそうで、また、捨てられそうで、本当に怖かった。
 

 いや、たぶん、この時から俺は理解していたのだと思う。いつもでも一緒に居てくれる人などいない、いつかは別れなくはならないと、今仲良くなってしまえばあとが辛いだけだと、わかっていたから、誰とも話をしなかった。
 

 ある日、俺は森で迷子になった。暗い森で一人っきりになるというだけで子供が泣き喚くには十分な理由だが、内心はどうあれ、泣くことだけは絶対にしなかった。モンスターの脅威について十分理解し、森で大声を上げるということはモンスターを引き寄せる行為だと知っていたからだ。それでも、やはり暗闇への恐怖は消える事が無く、その場に座り込んでただ震えていた。
 

 「あら、どうかしたの?」
 

 「・・・・・・ッ」
 

 何処からか声が聞こえたが、聞いたことの無いその声は返って脅威でしかない。辺りを見渡すが、人の姿が見えない。
 

 「ここよ、ここ」
 

 おばけに声を掛けられたのかと泣き出しそうになったその時、頭上から手のひらサイズの人間が降りてきた。
 

 白い肌に長い髪、整った顔立ちはまるで人形のようだったが、俺は一瞬で妖精と理解した。この手のオカルト話を毎日のように聞かされていたからだ。
 

 でも、聞かされていたからと言って信じていたわけではない。目の前にこうして話に聞いた妖精そっくりの生物が出てきても、誰かがからかっているのではないかと周りを見渡してみたり、糸を捜してみたりする。
 

 「どうかした?」
 

 妖精は優しく微笑んだが、俺は警戒を解く事は無かった。
 

 何せ、俺が聞かされていた妖精はとても恐ろしい生物だったからだ。その可愛らしい外見で敵を惑わせ、美しい羽根を羽ばたかせる度に舞い落ちる目に見えない粉には毒があり、その毒に侵されると身体が痺れてしまい、動けなくなった人間に群がり生きたまま骨の髄まで食い尽くすのだと言う。そんな恐ろしい生物が居るなど信じたくなかったが、こうして目の前に聞かされ続けてきた妖精と同じ背格好をした生物が現れた以上、信じるほかなかった。
 

 そして、自分がこれから骨の髄までしゃぶり尽くされる事を想像すると、これはもう、泣く他無い。
 

 「ど、どうしたの? 私が怖い?」
 

 ポロポロと涙を零しながら後退る俺を見て、困ったように慌てる妖精。妖精の本性を知らない人間が見たら一発で騙されそうな演技だが、これはきっと相手を油断させつつ、羽根から粉を振り撒く攻撃に違いない。
 

 睨みを利かせ追い払おうとも考えたが、涙でぐしゃぐしゃの顔では迫力など出ないだろうと、その場に落ちていた木の棒を拾って、絵本で見た勇者の臨戦態勢を真似て妖精を威嚇する。が、妖精は恐れる様子も無く、ただ慌てている。
 

 「こ、これ! このキノコ面白いよ!」
 

 木の根に生えていた何の変哲も無い一つの白キノコ。人間なら子供であろうと片手で引っこ抜けるサイズだが、妖精は両手でも全力でなければ引っこ抜けないらしく、腰に力を入れてキノコを引っ張り、抜けたと同時にその場に転がりながらも、それを俺の目の前まで持ってきた。
 

 「見ててね・・・・・・」
 

 小さくそう呟きながら人差し指でキノコを突付くと、『パンッ!』と大きな音を立てキノコは破裂した。驚きのあまりビクンと身体を跳ねさせた俺の顔に、やわらかい砕片がピシピシ張り付き、独特の異臭を放つ。
 

 「ぁうッ!? ・・・・・・あはははは。お、面白いでしょ?」
 

 妖精は自分の顔と変わらない大きさの砕片の直撃を食らい、鼻血を垂らしながらも、楽しそうに笑った。その目には薄っすらと涙が浮かんでいる。
 

 意味が分からない。これの何処が面白いんだ。いや、確かにちょっと面白かったかもしれないけど、友達とじゃれあっている時に友達が同じことをしたのなら必ず笑ってしまう場面だろうけど、コイツは俺を狙っているかもしれない油断禁物な見知らぬ妖精で、そんなヤツにいきなり子実体爆発ショーを見せられても笑えるはずが無かった。
 

 「はは・・・・・・ははは」
 

 それでも、必死に笑い続ける妖精を見て、俺は自然と愛想笑いにもならない引きつった笑みを浮かべていた。
 

 「あははははっ」
 

 それでも満足したのか、一層嬉しそうに笑う妖精。
 

 「ははは・・・・・・は」
 

 何故だか笑わないといけない気がした。とにかく口を吊り上げ、目を細めようと努力した。どんな顔になっていたかはわからない。
 

 「あははははははっ」
 

 「はははははは」
 

 口が裂けそうになるほど、俺は笑い続けた。

 

 

 

 楽しくもない世間話に参加させられた時、嬉しくもないプレゼントを貰った時、面白くもないギャグを上司に見せられた時。どんな場面でも満面の笑みを浮かべる自信が付いた頃、ようやく妖精が笑うのを止め、子供がこんな森に一人でいる事情を聞いてきた。
 

 素直に迷子だと答えてやると、妖精は胸を張って「じゃあ、お姉さんが森の入り口まで送ってあげましょう」と言い出した。まだ妖精の食人説が晴れたわけではないので、慌てて拒否したものの、妖精は話も聞かず俺の指を掴み羽根を羽ばたかせた。
 

 仕方なく歩き始めて、数秒と立たないうちから妖精の質問責めが始まった。「君の名前は?」「お家は何処?」「人間の王様って裸なの?」「何で人間同士で争ってるの?」「人間が妖精を食べるってホント?」数々の質問の中には、俺が知らないこともいくつかあったが、答えられる質問には正確に答えてやった。妖精はその度に目を輝かせて俺の話に聞き入る。
 

 そんな事を繰り返している間に、妖精への警戒は自然と解けていった。
 

 「へぇ、ファズ君はサーカスの人なんだ。じゃあ曲芸とか出来るの?」
 

 聞きたいことが無くなったのか、いつの間にか質問が俺に関係するものばかりになっていた。
 

 「まだ見習い。毎日動物の世話や練習ばかり」
 

 素っ気無く答えながらサーカス団での日々を思い浮かべる。
 

 生意気な犬に噛まれたり、気ままな猫を探し回ったり、不気味な鳥の話し相手になったりと、実際は曲芸士見習いと言うわけでもなく、動物の世話ばかりやらされていた。
 

 不満なんて無い。曲芸士になりたくてサーカス団の世話になっているわけでも無いし、数十メートルもの高さにある縄を渡るなんて恐ろしい事をやらされずに済むのだから、動物の世話役の方が何倍も良い。ただ、ちょっとだけ見栄を張ったまでだ。
 

 「サーカスってアレだよね。よくわからないけどすごい格好をした顔が真っ白な小太りの男の人が火の玉に乗って出てきたり、地上数百メートルの高さの糸の上を裸足で渡ったりするやつだよね。一度見てみたいなぁ」
 

 妖精はぼんやりと『サーカス』を想像する。
 

 火の玉を転がすピエロなんて見たこと無いし、世界一の曲芸士でも糸の上を歩くのは難しいと思うが、無垢なる妖精の夢と希望を壊さないために俺は黙っておいた。
 

 「でも、サーカスって同じ町にずっと居るわけじゃないよね?」
 

 「うん。移動中に皆とはぐれた」
 

 当然のことながら、人間は物事に飽きてしまう。サーカスも最初は人気があっても、徐々にその人気は衰えていく。客足が減ると収入も減り、大人数のサーカス団は食っていけなくなる。特に俺の世話になっているサーカス団は人数が多い割りに大した人気も無く、いつも金欠状態なのだ。
 

 だから、サーカス団は転々と町から町への移動を繰り返す事になる。俺が世話になっているサーカス団も例外ではなく、一週間身をおいた町から次の町へ移動している所だった。俺はその途中に、この森の中で一人迷子になってしまった。
 

 「そうなんだ・・・・・・。せっかく人間のお友達が出来たと思ったのに、残念」
 

 妖精は寂しそうに俯いたが、仕方の無い事だし、俺に何が出来るわけでもないのでただ黙っていた。
 

 「・・・・・・そうだっ! ファズ君が大人になって、一流の曲芸士になったら、今日のお礼に又ここに戻ってきて私に糸渡り見せてくれるってのはどう?」
 

 しばらく俯いていた妖精は、パッと顔を上げ、そんな事を言い出した。
 

 その提案には色々と問題がある。まず、大人になるまでに俺がこの事を覚えていられるかと言う事だ。自慢じゃないが俺の記憶力は抜群に悪い。昼間に今日の朝食を思い出そうとしても、思い出せないことがしょっちゅうある。
 

 次に、俺が曲芸士になる可能性があるかどうかだ。才能があるとは言われたが、やる気が全く無かった。下手をすれば命を落とす曲芸士になるより、一生小動物の世話役をやっていた方が安泰だからである。大体、一流の曲芸士でも糸渡りなんて出来るわけも無い。
 

 更に、今日のお礼ってお前が勝手に俺を連れまわしているだけじゃないか。友達にだってなりたいわけじゃない。
 

 「・・・・・・い、いいよ」
 

 それでも、了承してくれると信じきっている輝いた瞳を裏切る事なんて、俺には出来なかったのである。
 

 「ホント? やったぁ!」
 

 食人鬼とは到底思えない笑顔とクルクルと俺の周りを飛び回ることで喜びをアピールする妖精。
 

 「楽しみだなぁ、早く大人になってね?」
 

 微笑む妖精から、照れとちょっとした罪悪感から目を逸らしつつ足を進める。果たせるかどうかもわからない約束にそんなに期待しないで欲しい。
 

 それから妖精は、とても楽しそうに自分の事を話し出した。妖精の村は何処にあるだとか、自分の家族の事だとか、おやつをつまみ食いしてばれたとか、友達の好きな人に実は彼女が居るんだけど言い出しにくいだとか。色々だ。
 

 その頃、サーカス団に気楽に物事を話せる友達が居なかったどころか、他人とまともの話したことすらなかった俺は、何と相槌を打てば良いのかさっぱりわからず、ただただ無言でその話を聞いているだけだった。妖精はそれで満足だったのか、自分の事をぺらぺらと話していた。内容は全く覚えていないが、他人と話すのがこれほど楽しいことだと初めて感じたのは確かだ。まぁ、俺は聞いていただけだけど。
 

 それから何時間かすると、俺の名を呼ぶ男の声が何処からか聞こえてきた。サーカス団の子供の世話係であり、皆のお兄さんとも言える男性の声だ。
 

 それと同時に、妖精は消えていた。
 

 今までの出来事が全て夢や妄想だとでも言うように、さよならも無しに妖精は居なくなっていた。
 

 何かあったのかと辺りを探そうとした時、子供世話係である男性に発見され、妖精を探す間もなく俺はサーカス団の元へと連れて行かれた。
 

 後に聞くと、あの森は道から外れると帰ってこれないと言われるほど深く、凶暴なモンスターが生息している森で、もしかしたら俺が初の生還者ではないかと言う。
 

 妖精に助けられた。何て事を言っても誰も信じちゃくれないだろうし、信じられて妖精を捕まえにいこうなんて事になっても困るので、余計な事は言わないでおいた。
 

 妖精との約束を守ろうとしたわけではないが、俺はそれから少しだけ曲芸の練習もするようになった。最初は線を引いてその上を歩いたりしているだけの遊びと変わらない行為だったが、そのうち逃げ出した猫探しに塀や屋根を走るようになり、それが団長の目に止まって本物の綱渡りをやらされるハメになってしまった。流石に糸渡りは出来ないが、今ではロープなら走ってでも渡れるようになっている。
 

 今思うと、あの日から俺は他人と会話をするようになったんだ。今の俺があるのも、恐らくあの妖精のおかげだろう。でも、この長い旅の目的の中に『あの妖精に綱渡りを見せる』は入っていない。何故なら、猫と屋根の上で追いかけっこをしている頃には妖精の事をすっかり忘れていたからだ。
 

 そして、たぶん、これからも思い出すことは無いのだと思う。
 

 

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